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2013年6月 2日 (日)

過去の自分が現在の自分の観客となる『百年の時計』

『百年の時計』於・テアトル新宿 
 
  ご当地映画であるため、映画を見慣れていない観客たちにも優しい作品なのだろうと思っていたのだ。そして、その構造の中で、どう楽しませてもらえるか、と。
 ところが、これが後半が大変なことになる。そして、ありがたいのは、大変なことになる前準備が前半の中で少しずつ試され、さあ、やりますよといわんはかりのお膳立ての上で、後半の大幻想ノスタルジアに突入する。
 現在の自分が、過去の自分を遠い目で見つめるシーン。そう、このふたつが同じフレームに登場する。過去は、ややセピア的に脱色されている。その調子で、過去のシーンは基本的には、脱色されている。
 多くの重要なシーンは、コトデンの車両の中で進行する。まず「ああ、これがしたかったのだな」的展開は、憧れの女性が夢のようなセリフを口にするとき、バックの車窓も、海辺を走っているところで、最も美しい景観が展開している時なのである。そう、電車内で行われているから、都度、車窓の眺めは違うのだ。
 後半の大スペクタクルでは、過去と現在、そして過去の現在的解釈が同居してくる。そして、この中では、主人公たち以外の人物たちのドラマを次々と走らせ、全くそれらを回収はせずに、スケールを広げるだけ広げて驀進する。そして、目的地?について、多くのオーディエンスに囲まれての下車、ここで現在と過去の感動的な立場逆転も描かれる。
 『1999年の夏休み』での引用があまりにも強烈だった中村由利子のメロディは、始まって、このシーンまでは悲しげではない美しいメロディを奏でているが、このシーンで様子が変わる。『1999年の夏休み』すなわち『風の鏡』当時のノスタルジーと簡単に言い尽くせない美しく哀しいあの感じに戻るのである。そして、ここで、まるで「ファンの方、ここで終
わってほしいと思える人は、ここでご自身でエンドマーク、ということでどうぞ」的な仮ラストが用意される。
 がしかし、そこで終わると、例えば寅さん映画しかちゃんと見たことない、的な人たちはついていけないかな、といわんばかりに、主要人物たちのラストの丁寧なドラマの帰結が行われる。
 エンドタイトルが中村由利子ピアノではなく、タイアップソングなのが、すごく残念だ。
 
 パンフレットには、作品評は、映画評論家の大久保賢一氏と、七里圭監督のものが掲載されているが、大久保氏が引用される事象について触れつつ解説、七里監督は、本作のストーリーテリングの大胆さについて驚愕している。

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