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2013年7月31日 (水)

マントヴァーニに謝れ、もしくは「時間よとまれ」的なもの『サウンド・オブ・ノイズ』

『サウンド・オブ・ノイズ』於・シネマカリテ(鑑賞7/27)

 いわば、ゲリラアートの話を、犯罪ドラマの手法で描いているわけだけれども、いくつかの、その要素ひとつとっても、ひとつの物語になりうるアイデアをいくつか組み合わせることによって、複雑な構造になっている。
 まあ、いわば愉快犯的な物語における「愉快犯」は、殺人などの深刻な罪の箇所をべつにすれば、ゲリラアート的な要素がある。今回の要素で言えば、ここに、追う側の裏をかくトリック的な部分はない?ために、音を出すパフォーマンスのみに、彼らは「アート」を考えているわけだ。
 さて、ここで気になったのは、初めの病院のくだりは別なのだが、トータル的に、表現者であるならば、それを世界に見せる手段が大切なはずなのだが、どうもその部分がなぜか欠けている場合があることだ。たとえば、なにか理由をつけて、テレビを待機させて、そこでハプニング的にパフォーマンスを行なうことで、世界に「目撃させる」というようなところがあるのだ。
 多くのゲリラアートの場合、残る「もの」がある。たとえば、町のオブジェに服を着せる場合、その着せる現場は見せられないとしても、そのあとに残る「服を着たオブジェ」ははっきりと記録されることができる。が、アートが「音楽」であるならば、その「演奏」の現場が記録されるか、生を目撃させる手段を作っておかないといけない。
 はからずも、ラストのアートは、その町の住民に体感させることができたことになるが、これも、もともと彼らのアイデアにはなかったものである。
 世の中にあるゴミのような「音楽」に喝を入れるべく成り立った演奏であっても、それが自分たちの間のみで終われば、抗議活動でもなんでもなくなる。
 また、いわばエレベーター・ミュージックが「ゴミのような音楽」の典型として語られているが、この箇所も、そのファンである側としては、彼らに感情移入はできない理由になってしまう。
 ちょっといじわるに考えてしまったが、ここでの、軽蔑される音楽は、刺激や興奮がなく生み出される音のことなのであって、「日常の延長線上のように作曲され」「ルーチンワーク的に録音され、耳にも興奮がない音楽」のことであるのだろう。ただし、そこでも、またそっち側のファンとして思うのは、おなじメロディが奏でられた録音、作品、であっても、そもそも、彼らの考える「音楽」とエレベーター・ミュージックは、存在価値自体が違うのだ。べつに、音楽としてなまけた作品が、結果そうなったわけではないのだ。マントヴァーニにあやまれ、的な。
 音楽を演奏することだけでは、刺激ではなくなった結果、演奏そのものを刺激的にする直接的な手段として、今回のような方法はとられる。
 ただし、その姿勢が貫かれたかどうかは疑わしいのは、彼らは、最後には、そのエレベーター・ミュージック側に戻らされることになる。が、一周して、そこに戻ってきて、案外、この音楽の存在価値が分からないでもない気だるい心地よさはそこにあるような気がするのだ。決して、『未来世紀ブラジル』のラスト的悲観さじゃないし、まあ、十分大人なんだけれども、丸くなった元不良のかっこよさがないわけでもない。
 矢沢永吉における「時間よとまれ」的なもの、ザ・ローリング・ストーンズの「哀しみのアンジー」的なもの、といったらいいんだろうか。もしくはロッド・スチュワートのジャズ・アルバムだったり・・・

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2013年7月30日 (火)

画面の中で身を隠したい主人公の肉体が蠢いている『ファンタズマ』

『ファンタズマ』於・オーディトリウム渋谷(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス・レトロスペクティヴ)鑑賞7/27

 物語は物語然としなくてもいいのだが、その奈落への落ち方が心地よい。やはり、例えば男女が愛欲の末に、みたいな形でのドラマと同じだと思うのだが、少年ひとりが、暴力というのでもない一方的な衝動にただひたすらひきずられていく。
  その後に作られるほかのロドリゲス作品の、ひとつの作品での多様性ではなく、これはひとつの衝動を深く深く突き進ませるものだ。
  アングルは据えられたままでほぼかわることのない画面の中で、自分は主人公ではなく、いつも隠れているつもりのような、少年の肉体。この、まるで、映されないでいようとするものが映っているものを観客はただ見つめ続ける。ときどき、画面は、その少年を映すことに積極的でないがために、少年の肉体も、なにか、うごめいているものが、画面の中で映っている、そんな状態におちいる。テーマとか物語とかを通り超えて、自分は何を見ているのか、感さえ漂ってくる。
 自虐的な甘さというか、この、観客を戸惑わせる感情を引き込んで映画の世界とミックスさせるかのような感覚は、一度味わうと、クセになるのだろうけれど、そういう作品には、なかなか出会わない。

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2013年7月28日 (日)

全年齢用大メジャー作品としての方向性『真夏の方程式』

『真夏の方程式』於・池袋サンシャインシネマ

 まず、この映画はジュブナイル的な構造を持っている。少年の話で始まって、少年の話で終わる。かつ、ひと夏の経験で終わらないシリアスさがあるのだが、その重さと引き換えに、ある意味ハッピーエンド的な理屈を引き出している。
 金田一耕助もののように、探偵役はいるけれども、主役は、その事件の重要なカギを握っているであろう家族の側にあり、彼らの人間ドラマが重きを持つ。また、後半の、過去の事項の整理の段階におけるムードが、もちろん、悲劇的事件はおきるわけだけれども、それまでの時間の描き方が、思い出したくない過去ではなく、懐かしい過去として描かれているように思われる(ここが『熱波』を思い出した理由)。
 とにかく、どメジャー映画というか、それまでのここ最近のフジテレビ映画のイメージ(すみません)での派手なカメラワークとすばやいカット割りからはほど遠く、一見して、アート映画風な作風に寄る訳ではないが、ほぼカメラは動かず、役者も激しいアクションはしない。というか、アクションに大きな理由を持たせることを極力さけている。
 これは、ある意味、全年齢に向けて、疲れさせずに物語を追うことを可能にするための心配りとも思える。つまり、どメジャー映画ゆえの作風であるべき作風である。別に、ロングシリーズを狙うとかいう意味ではなく、そうすると例えば、寅さん映画などのロングシリーズには、多くの観客に優しく心地よい見せ方の技術は、たっぷり詰まっているはずで、そういった作品も見直したいな、とあらためて思う。
 例えば『踊る大捜査線』や『私をスキーに連れてって』の頃は、最も多いであろうターゲットの年齢層(年齢で括ることに意味はない説ももちろんある)に支持される作り方でよかったが、今は、全年齢(やや高齢寄り)のための映画であることが理想であるべきなのかな。
 菅野祐悟音楽は、可能な限り、登場せず、せっかくのロケーションなので、その土地を満喫できる環境音のみになるべく編集する。そして、このライブ感が、スター感と演技力を共に備えたキャストたちの控えた演技が合って、見る側に快感を覚えさせる。
 その快感が重きだからだろうか、シリアスなドラマでありながら、夏のメジャー映画の鑑賞後の感覚の理想としての爽快感が残る。
 全年齢ターゲット的に、若い人主体にヒットしたドラマでも、それを大人向け演出で劇場版を作る、というのは、これからのファミリー用映画としても、アリだろうな、とも思う。構造的には『真夏の方程式』は十分ファミリー映画だろうと思うし。

 パンフレット。昔と違って、今の観客でパンフレットまでも買う層が求めるものとは、という考えがあるのだろうか、この映画が「役者ありき」というより「計算されたスタッフワークで緻密に作られた作品」であることを説明する。主要キャストのインタビューも、しっかり、作品の内容を補完する回答になっている。監督のインタビューで2ページを割き、プロデューサー、撮影監督のインタビューまでも載せる。そしてプロダクション・ノートに、福山×東野の対談。原作論として、ミステリー評論家の村上貴史氏が論じ、ここ最近のパンフレットの特徴としての、これまでのガリレオ・シリーズの系譜をものすごく詳細に掲載している。インタビュー、プロダクション・ノートなどは相田冬二氏による。
 パンフレットのあるべき姿の方向性としては、「面白かった」と思った観客が、「でも、面白かった、以上の表現が、友人に薦めたくても、うまく思いつかない」状態の時に、「どう面白かったか」を具体化させるヒントをいっぱい与える冊子、という考えがある。そこに忠実に、この映画の利点を詳細に自ら分析した冊子であろうと思う。

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2013年7月25日 (木)

生々しさと清潔さの乖離『爆心 長崎の空』

『爆心 長崎の空』於・東劇
鑑賞7/20

  真正直な映画を観たい衝動に駆られたのと、そんな様相の映画でありながら、主演が北乃きい、と知って、どんな表情を見せるのか、という興味もあって、のぞむ。
 これは映画そのものではなく、物語についてだが、長崎を舞台にしているが、(そう、さらに観る気を推したのが、ものすごく長崎らしさが出ている映画、という感想をどこかで見たからだ。で、ご当地映画趣味も手伝った。)物語の核を成すのは、現在の死と生の物語である。
 登場人物たちの中でも3人の女性が物語を牽引するが、彼女たちに共通するのは、ある死についての責任を自分はもっているかもしれない、という自責の念である。
 ともすれば、内にこもって、身動きが取れなくなってしまうドラマのために、例えば、主人公たちの中で最も若い北乃きいは、ことごとく、自転車やランニングなど、走るシーンを強いられる。
 気になるのは、この物語におけるラブシーンのあり方で、いずれも必然ではないと思うのだが、物語を洗練させずに、生身の人間の、肉体全体での苦悩、その感じを出すためには、あったほうがよいのかもしれない、というのは黒木和雄監督からの流れでの生々しさとして納得する。が、そうすると、そのシーン以外のあまりにもの清潔感とが、ちょっとかみ合っていないギクシャクした感じもする。 
 劇伴をピアノソロにする、というアイデアは、もうこれ以上ウエットにする必要はないだろうドラマのための音楽としては、正しい判断とも思える。そこで思ったのは、そういえば、ピアノソロを劇伴とする映画って、ほとんど思い当たらないな、ということ(マイナーだが、ベイジル・ポルトゥリス音楽の『ラスト・パーティ』が思い浮かんだが)。

 パンフレットは監督、主演へのインタビューが詳しく掲載(文・野村正昭氏)。コラムは映像評論家・映像作家の波多野哲朗氏による作品の印象論、若松英輔氏の、映画を離れて宗教論一般的な言及の原稿。

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2013年7月23日 (火)

飽きることのない見せ方へのアイデアも楽しい『1000年刻みの日時計 牧野村物語』

『1000年刻みの日時計 牧野村物語』
(於・オーディトリウム渋谷/はじめての小川紳介)鑑賞7/20

 上映時間の長い映画を観るときに面白いのは、まず、今回のように4時間弱の作品、と聴くと、心構えをする。すると、自分の心の中での、映画の情報処理速度が、調整されるんでしょうね、今回も、1時間50分たっての途中休憩になったとき、あれ?と思ったのだった。
 このドキュメンタリーの面白いところは、過去についての再現劇という形でのフィクションが随時挿入されていく。それは、地元の人による即興に近いもの(演技から地に戻る瞬間が絶妙だ)から、本職の役者を使っての本格的なものまで。理科の教室で見るような真正面からの実験記録的な、稲作の記録や、歴史的発見かもしれない発掘をめぐる考古学的やりとりのような素朴な展開から、と、手法がめまぐるしいため、そりゃ、観るほうも飽きるわけがなく、牧野村をめぐる短編を立て続けに見せられた感じでありつつも、これを一本の映画として見せるところにユーモアがある。
 そして、そう、この映画の魅力の大きな要素はこれですよ感をラストに思い切りクローズアップするが、あまりにもスリリングな、富樫雅彦のドラム&パーカッションによる「音楽」である。

 ドキュメンタリーとして提示されている作品の中に、あきらかなる作劇部分が存在する、というこのアイデアは、多くは、巧みにミックスされているのだろうか。あえて本作のようなスタンスにした方が、テーマや観客への姿勢ははっきりすると思うのだが。

 本筋から外れるかのように語られつつ、そちらも興味深い、という歴史にまつわる知識は、松本清張『Dの複合』や、邦光史郎『幻の高松塚』を思い浮かべた。10代の頃は、本筋のミステリーから外れての興味の部分は、飛ばして読もうか、なんて思ったものだが、そういうことではないんだ、ということは、今になってみれば、もちろんわかる。

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2013年7月22日 (月)

危険な感覚の推移を冷静にカラフルに描く『トランス』

『トランス』(於・ユーロスペース/ポルトガル映画の巨匠たち2013)
鑑賞7/15

  女性が自由、自立を求めて旅する物語か、と初めは思う。しばらく時間が経っても、映画の撮り方自体には、アブノーマルさを感じないため、シリアスな女性ドラマが展開していくのだと、まだ信じている。が「シリアス」とはなんぞや、ということもあるが、次第に、彼女が不条理な待遇を受けている画面の中に、平然と美しい画面が挿入されるようになる。
 エロがメインのフランス・イタリアあたりの手法だと、このあたりで、女性に陶酔の表情を浮かべさせるだろう。だが、それはない。淡々と、彼女に向けられるいわれのない仕打ちが続くだけだ。そして、それは逃げ場がない。大体、逃げ場とはどこにあるのかも分からない。ちょっと、シチュエーション・ホラーにも似た感覚だ。
 画面が、枯れていないのも、油断する要素だ。パゾリーニのように殺伐とはしていない。また、デカダンスという様式美でもなく、その感覚は、ある意味、モダンな世界の中で展開している。
 そして、そんな、ひたすらに堕ちていくことになる女性の物語に「トランス」というタイトルがつけられている。こういったタイトルのつけ方、これこそが、この作品での、あまりにも悪い冗談のユニークさで、このタイトルに気づくことで、物語の見方は、一気に客観化、もしくは、彼女の深い部分と同一化する。

 本当に、ポルトガル映画は、感覚のどこに旅させてくれるか思いもよらない破天荒な、冒険映画が多いことよ。

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2013年7月21日 (日)

架空の往年の恋愛映画の名作『熱波』

『熱波』(於・シアター・イメージフォーラム)鑑賞7/14

 シブくない。このシブくなさがいい。後半の回想部分としてのセリフの無音の処理などの技巧が、前半が存在することによって自然に入ってくる。ここでも、監督のオールディーズ・ポップ趣味は炸裂して、主要人物にバンド演奏をさせたりもする。
 ここでのスタンスは、メロドラマという、かつての映画の王道の、それもテイストも似せての復興でありましょう。なので、本当言うと、現在のアート映画ファンよりも、例えば午前十時の映画祭あたりにすっともぐりこませて、あたかも往年の名作のように見てほしい、そんな「架空の過去の名作」的な香りもする。
 ゴメスには、もうこうなったら、直接的にオールディーズ・ポップスを題材にした作品を撮ってみてほしい気がする。

 パンフレット。コラムは作家の金井美恵子氏と上智大学ポルトガル語学科教授の市之瀬敦氏。氏の指摘する「登場人物の名前」問題が面白い。このアイデアは、現代日本のアニメやラノベに共通するし、監督の若さならではの発想のような気もする。
 後半の監督へのインタビューで、この作品のエッセンスはほぼ解説されるが、難解な解釈の上に成り立つのではないところが面白い。

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2013年7月18日 (木)

個人的映画音楽考察総括その2。  クールな中のキャッチーさ。あまりにCD化のないダニエル・パトゥッキについて

 ステルヴィオ・チプリアーニと違って、ダニエル・パトゥッキは、どうも、好きな人は好きなようなのだが、CD化がまだ全くといっていいほど、されていない作曲家である。まず、私自身の中で、なぜ、チプリアーニに告ぐフェイバリットな作曲家としてあげるほどになったのか、ということを振り返ってみる。
 多分、ひとつの理由として、「CARA SPOSA」なる作品のサントラの存在があると思う。いまだにこれもCD化はされていないが、チプリアーニとパトゥッキの共作で、LPには、チプリアーニとパトゥッキの曲が交互に並んでいる。
 80年代頭に、パトゥッキが担当した作品が立て続けに公開される。『ウイニング・ラン』『グレートハンティング84』『カランバ』『猛獣大脱走』。のちに、マカロニウエスタン『ロス・アミーゴス』を担当していることや、それ以外にも艶笑史劇などがディジットムービーズでCD化されたり、おそらく、ジャンルの守備範囲は狭くはない人なのだと思う。
 が、80年代の、あげた諸作のインパクトはあまりにも大きかった。『グレート・ハンティング』(として公開された、アントニオ・クリマーティとマリオ・モッラによる残酷ドキュメント)のそれまでの2作のサントラはすっかり愛聴盤化していた自分としては、続く84(別に続編というわけではないのだが、同じスタッフ、同じコンセプトによる新作)ということで、当初、日本でもLPが発売になる予定で楽しみにしていた。が、結局、84としてはシングル盤がリリースされたのみで、当初LPとしてリリース予定だった品番は、最新サントラ・ヒットみたいなアルバムに当てられたと記憶している。
 映画としては、『猛獣大脱走』は、先に作品を見ていたと思う。確か、すみやのリストでそのタイトルを見つけたときには、狂喜乱舞だったと思う。それほど、この作品は、サントラがかっこよかった。これは、なんといったらいいか、刑事アクション的にかっこいいフュージョンの、よりドスを利かせた感じだが、すぐに覚えられるほどのキャッチーなメロディも持っていた。
 80年代のパトゥッキの諸作は、まあ、作品の性格にもよるのだが、クールでハートボイルドなのだが、ベタなキャッチーさをしっかりともったメロディが常に、そこに乗るのである。残酷ドキュメントに美しいメロディねはセオリーではあったが、オルトラーニ的な澄み切った美しさじゃなくて、ニヒルさがまとわれていた。シンセの使いっぷりも、80年代的ホドホドさのモダンな感じがあった。
 そして、それらの作品を凌駕し、それまでのイメージを覆してオルトラーニ的美しさの作品も残していたことが明らかになり、パトゥッキ最大の名盤であるかもしれないのが『シャーク!』であり、これはちゃんと日本でLPが出ていた。
 が、これらはいずれも、CD化されていない。その鬱憤を晴らすべく、日本でカルチュア・パブリッシャーズから発売の「ヨーロピアン・シネ・スーベニール’70」で、CAM保有音源であるところのパトゥッキ『シャーク!』『カランバ』のテーマ的主要曲は収録された。『猛獣大脱走』『グレート・ハンティング84』は、まだコンピにも収録されたものがない。やはり、このあたりのジャンルも手がけてくれるのは、ディジットムービーズしかないかなぁ、と待ってはいるのだが・・・

 次は、何をとりあげるかと考えて、『ザ・チャイルド』(ワルド・デ・ロス・リオス)『エアポート77』(ジョン・カカバス)なども思うが、なかなか音源が揃わない作曲家さんたちなので、マイ・フェイバリット『ハリーとトント』や『ふたりでスローダンスを』『アンクル・ジョー』あたりから思いをはせてビル・コンティを取り上げてみましょう。

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ラフでほろ苦い青春映画としての『サンダーボルト』

『サンダーボルト』(於・オーディトリウム渋谷・70年代、アメリカ。)
鑑賞7/14

 必ずしも、脚本や、役者の演技の緻密さといったところとは別のところに存在する、あまりにもの大らかさ。大犯罪をしでかした男にアウトローを気取る若者があこがれて道中を共にする。スター俳優ふたりの共演で見せるどメジャー映画なんだが、すきまだらけの自由さを感じ取れて、これはまさしくロードムーヴィーの感覚で、犯罪映画の感覚ではない。クライマックスもラストも、緊迫感というより、しっかり仕事をしとげる心地よさを感じる。
 このサスペンスというよりも、観客に対するイーストウッドへの信頼感ゆえとでもいいたいどっしりとした感覚にもとづいて進行するテイストは、イーストウッド映画特有のもののように思う。この信頼感が、大雑把(に見える)な娯楽映画の、のりしろありきで楽しむ余裕を観客に与えるというか。
 そして、この作品で言うと、シネスコの画面ゆえに、作り手がコントロールできないよ的なワイルドさが展開して、自由である部分が多い感覚を楽しむことになる。
 犯罪映画をみた感覚は全くしない。それについては、若者(ジェフ・ブリッジス)も同様の発言をする。ディー・バートンの音楽も、サスペンス・アクションじゃなくて、カントリー的風味だし、ポール・ウィリアムスの主題歌も、ピュアでほろ苦い。

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個人的映画音楽考察総括その1 イタリアン・サントラ界において、 孤立するメロディメイカー、ステルヴィオ・チプリアーニについて。

 個人的見解多めで、一度、サントラ全体に関しての考えることを、まとまった文章にしておかないといけないな、と以前から思いつつ、実行していなかった。いよいよ、してみようと思う。

 まず、やはり初めは、ステルヴィオ・チプリアーニについて、書いておかないといけないでしょう。
 これについては、何度か書いていますが、私が、初めてスクリーンで見た洋画が『ラストコンサート』であり、おなじみ、『カサンドラクロス』との二本立てで、ラスコンを先に見たため、こういうことになっている。
 自分にとってのチプリアーニのトラウマ的ベストは『ラストコンサート』ではなくて、『テンタクルズ』である。理由は、やはり、ジャンルにミスマッチな音楽、ということもあるだろうが、作品への評価としてのトホホ感との対比でのいとおしさのようなものもあると思う。
 今となっては信じられないが、イタリアン・サントラのCD化がコンスタントになされるようになりはじめた頃は、チプリアーニの音源は、全くといっていいほど、とりあげられていなかった。当時は、DJたちにも愛される面白いビートのものメインなところがあったため、ビートというよりもメロディで聞かせたチプリアーニの音は、なかなかとりあげられなかったのだと思う。
 なので、日本で『ラストコンサート』、そして『モア・アモロッサ・チプリアーニ』『シニョーレ・チプリアーニ・テンポ』といった選曲盤がリリースされるにあたって、日本での人気がどうも目立った用でもあった。
 チプリアーニの人気の一端にマカロニウエスタン側の要因もある。ただ、その頃は、代表作といわれた『荒野の無頼漢』も『盲目ガンマン』も、CD化されるのは少し経ってからなので、現在の充実したリリース・ラインナップの方向に舵をとることになったハシリは、多分、ディジットムービーズが『殺人魚フライングキラー』を発売したところからだろう。
 チプリアーニの音に愛着をもってしまう理由には、多くの作品が、いずれも、初めて聞いてもすぐにチプリアーニ節とわかる、独特のメロディまわしをもったメロディを、ストレートに出してくるところにある。そして、珍しいのは、そのチプリアーニ的メロディ展開が、他の作曲家の作品で聴けることがほぼないのだ。イタリアン・サントラにおいて、チプリアーニのメロディだけが、明らかに浮いているのである。
 イタリアのサントラ・コンポーザーたちのメロディの多くは、陰をもった美しさがある。だが、その逆で、チプリアーニのメロディは、一見哀しいメロディでさえ、明るさが聴こえてしまうのである。
 チプリアーニは、マンシーニに憧れた、という話で、そう考えると、マンシーニのメロディも、一見哀しくても、明るさももつロマンティックさをかもし出している。が、マンシーニには『ひまわり』といった、それは明るさではないだろう、的な名曲がオードリー後に存在する。チプリアーニは彼にとっての『ひまわり』的作品は、今のところ、見当たらない。
 ただし、その例外ない明るいロマンティックさ、これが結局チプリアーニものを特別なものとして際立たせる要因になり、新たな発掘の作品を聴くたびに、それをまた証明させられるようで楽しい。そんな状態が続き、現在のチプリアーニ作品、続々のCD化、となっていると思っている。

 次回は、こうなると、ダニエル・パトゥッキについて書くことになろうかと思います。

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2013年7月17日 (水)

固定された景色の中の起承転結『ステンプル・パス』

『ステンプル・パス』(イメージフォーラム・フェスティバル2013)
鑑賞7/14 横浜美術館レクチャーホール

 デレク・ジャーマン『BLUE』をやはり思い出さずにいられないが、語られる内容は、より具体的なものであり、かつ、時間軸に沿っての朗読(といっても、本当に淡々としているが)である。そこで、爆弾魔となる男が、森の奥の小屋に立てこもり、準備をしていく様子であるとか、この男の活動を終えるときの開放感的心持であるとかが、微動だにしないカメラアングルが見る単調だが複雑で変化に富む森の景色と、細やかな自然音が、男の心理状況を冷静に体験を持って説明しているように思われてくる。
 意外だったのは、このフィルムにも、なんとクライマックス的変化がある。夏の夕暮である。森の景色は変わらないはずが、日は沈むのだ。その前に、雪景色という、起承転結でいうなれば「転」がある。この「転」を踏まえて、夏の夕暮と共に、男の終焉だ。これらの映像と、自然音の彼方に、イマジネーションでの、あまりにも衝撃的な男の日常がある。あまりにも直接的「表現」を避ける、表現で、実験映画ではあるのだけれども、かなり具体的な鑑賞感をもつことになったと思う。『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』のミニマルさとは意味を異ならせる固定カメラだ。

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2013年7月16日 (火)

リアルタイムで進行する人質映画、というジャンルを深める監督『コンプライアンス 服従の心理』

『コンプライアンス 服従の心理』於・シネマカリテ(鑑賞7/13)

 本当に、その事件だけをじっくりと描いた映画である。だけに、乾いた、すごく客観的な手法でとられている。かのようだが、後半で、少し、それについての言及があるが、実は、店長サイドから描いている物語である。物語というか、事件再現である。この「実際はどうだったのか」のあいまいな部分のズレや隠しによる恐ろしさの演出。自分が最も手法的に似ている、と思ったのは『ブレアウィッチ2』なんだけれども、近年の防犯カメラ映像によって淡々と描いているように見せて実は、的なホラーの感触に似ている。すなわち、おおまかな「大変なこと」の共有はあるのだけれども、細部でずれが生じるのは、それぞれの動揺ゆえか、真実を隠したいゆえか。
 このズレや隠しの演出は、この犯罪をもともと実行した男自体の恐ろしさはもちろんなのだが、そこではなく「本当に、自分は悪くなかったのか」という、操作された側の人間の苦悩をはっきりさせる。信じられない犯罪の再現ドラマではあるけれども、濃密に緊張した心理ドラマでもあるのだということが、そこでわかってくる。
 
 コンパクトなパンフレット。監督のコメント、実際の事件の詳細、コラムは、中央大学文学部教授の辻泉氏の作品論。特に、心理学の専門家による見解というものではない。
 監督のクレイグ・ゾベルは、興味を持っている「ジャンル」として「リアルタイムで進行する人質映画」をあげ、『狼たちの午後』『バス174』『ある戦慄』そして『ユナイテッド93』をあげる。舞台劇的心理ドラマのカメラワークの参考作品として、『バージニア・ウルフなんかこわくない』を挙げている。

  ところで、この『コンプライアンス』で描かれる、電話による心理操作は、いわゆる「オレオレ詐欺」「母さん助けて詐欺」に酷似してはいないか。つまり、店長が、大金を騙し取られる被害者と考えれば。直接的ではないが「オレオレ詐欺防止考察映画」にもなりうるのではないか。

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2013年7月15日 (月)

『トイ・ストーリー』的なものへのアート映画からの考察『自分に見合った顔』

『自分に見合った顔』(於・ユーロスペース/特集・ポルトガル映画の巨匠たち)7/13鑑賞。

 ミゲル・ゴメスの二部構成攻撃は、この後の『熱波』にも通じる。
 そして、初めのテイストは、ミシェル・ゴンドリーを初めとした、音楽をジョン・ブライオンが担当するあたりの、大人になりきれない人間たちのドラマの、いろんな意味での可愛らしさを感じるのだが、この二部めで、混乱をきたす。
 混乱といっても、トーンは、このトーンは保たれたままである。そして、ふりかえれば、二部の物語を始めさせる伏線が一部では張られている。いわば、二部というゲームの、抽象的なルール説明が一部でなされている、といっていいと思う。
 この「ゲーム」の長さについてが、自分には気にかかったところで、ある種のアイデアの意味合いに気づくと、あとは、キャラクターたちにのれなければ、なかなかつらいもので、その意味で言えば、「可愛い男たちのおしゃべり」が好きな方には、面白いものであろうかと思う。これは、日本だと、女子ターゲットのドラマ、アニメで多く用いられている手法であって、ひょっとしたら、そのアイデアを逆に取り入れているのかもしれない、とも思う。第二部だけの舞台劇が、若手男優たち主演で行なわれたり、というのはごくごく自然にありそうである。
 さて、それはともかく、これはミゲル・ゴメスの『トイ・ストーリー』的な物語へのアート映画からのめくばせともいえる。一見、主人公の夢の物語に見えるが、「自分の病気よなおれ」というテーマの夢をすぐ直接的に見ることはあまり自然ではないので、病気の主人公の気づかないところで、第二部の七人の男たちは行動していると思われ、これは、みんなが寝静まったところでおもちゃたちが動き出す発想と同じである。
 結局、映画は、その男たちの物語のみで終わる。というこで、こちらが描きたかったことなのだろう、ということがわかってくる。
 そうそう、この映画における、漫画チックな演技のデフォルメは、ウエス・アンダーソン映画の、作られた世界の楽しさと似たところがある。
 映画表現のもつ明らかな「不自然さ性」の強調は、ミゲル・ゴメス映画の存在理由のひとつのようである。つまり、ゴメス映画は、狭い意味でのリアルからは離れようとする。
 アメリカにおける新しいアート・ムービーの香りと近い表情の作品にこの作品はなっているわけだけれども、映画はどうあるべき、の反逆の反逆みたいなところで、実験がなされている、ということなのだろう。

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2013年7月14日 (日)

美しさの前にただ混乱する『私たちの好きな八月』

『私たちの好きな八月』
(於・ユーロスペース・特集 ポルトガル映画の巨匠たち)7/13鑑賞

 映画の構成としては、ホセ・ルイス・ゲリン『工事中』を思い出したが、そこに音楽が入り、そして、このミゲル・ゴメスという人は、いい意味で、雑念がありすぎる。もしくは、素晴らしいショットが撮れてしまうと、なんとかして、そのショットが必要な映画に作品を構成しなおしてしまうんじゃないか、と思う。
『私たちの好きな八月』は、色、動き、音、言葉などの音色など、美しいものがあふれていて、どのシーンにも、複数の美しい要素が存在していて、見とれてしまう。さあ、ここで、この映画のユニークなところは、編集ということになる。編集も、意識のズレは独特の快感を呼び起こすので、ストーリーのスムーズさだけでない、映画という音楽のビートを構成するためにも重要な技術だ。
 そして、おそらく、この映画では、多くの実験がなされている。そして、それはゴメス映画では、常に行なわれているもののようでもある。『私たちの好きな八月』で行なわれようとしたアイデアで面白いのは、普通に低予算娯楽映画としてつくることができる脚本を、素人に、その人たちの土地で朗読させて成立させてしまう、というものだ。朗読による成立は『熱波』でも試されるが、あたらは、ちょっとまた違う実験である。
 確信犯的に思える「作ることができなさそうな映画」のメイキング。もともと完成を考えていない映画のメイキングとその周辺は、『王様の映画』や『完全な真空』などを思い起こす。
 そして、忘れてはいけないのは、ゴメス映画の重要な要素である音楽へのふんだんな目配せだ。それも、わかりやすいポップス、本作に至っては、なんとカラオケまでもがモチーフだ。この大衆性とアートの接近は、ヴィム・ヴェンダースあたりと同じ趣味を感じさせたりもする。
 ゴメス映画における、明解にロマンティックなポップス、は統一して監督の趣味として存在するようである。この明解さはペドロ・アルモドヴァルでさえも難解に思えるほどのわかりやすさだと思うし、不思議な親近感キュートさを覚えさせる大切なチャームポイントとなっている。
 
 ラストは、もうシャイさを隠しての、インテリお遊びだけれども、裏方スタッフを重点的に紹介する、という姿勢も愛される一因を見ることができた。

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2013年7月12日 (金)

航海の成功の別の側面が心に残る 『コン・ティキ』

『コン・ティキ』(試写にて鑑賞・アスミックエース試写室)
 
 史実に基づいているから、ということがあるからだろうけれど、意外にも、平坦である。それは、ドラマチックなドラマが常に起るわけではない的な姿勢を見たりもするし、ちょっと終盤で見せ場的な箇所はあるけれども、全体の中で、そこがメインというわけではない。
 サメや嵐の恐怖はあるはずなのだけれども、それも強調はされない。もう、大海原への冒険では、それはほぼお約束だといわんばかりだ。
 それよりも「予定通りに進まないことの恐怖」や、孤独といった内面の問題が表れる。複数の人間が乗り込んで入るが、それぞれはみな他人であるし、友人でもない。それぞれにただ孤独がある。
 主人公の孤独に、さらに強烈な一撃を浴びせる出来事が、航海の後に訪れる。そして、これが、結構、映画の中で重要な部分を担っている。
 壮大なドラマを限られた時間で見せるということもあるが、必要以上にライトに描いている気がした。航海を終えたカタルシスは、あまりない。その冷淡さは、仕組まれたものであるような気もするが。
 

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2013年7月 6日 (土)

まさに、まさしくなタイトル『生きる源』

『生きる源』(於・ドイツ文化会館ホール/ドイツ映画特集)

 3世代を描く物語だが、「家族」の感覚がなかなかおこらない。家族というよりも、二組の男女の成就した恋物語と、一組の成就しなかった恋愛からの孤独の物語であり、その意味では、ちょっとオムニバスをザッピングしているかのような気持ちにもなる。また、そうとうドラマで、このタイトルは秀逸。
 人間を描く巨編では、作品を引っ張る力が必要だからか、普通の尺のドラマ以上にえげつない描写を入れることは多いと思うが、この映画も、巨編ならではのえぐいが、ある意味リアルなシーンは数箇所登場する。もちろん、初めから、主人公の回想劇として語られているので、リアルさじゃなくて、残っている印象を大げさにつないで行っても不思議ではなく、くどくない程度で、そのテンションを保てばいい。
 カメラの動きが静かなことと、劇伴的な音楽を表に出すことをほとんどせず、しても、本来かかりそうなテンションのものとは外れたトーンを下げたサウンドをつけることによって、パワフルさの印象を薄めている。
 もともとが、子供時代の印象によって組み立てるからだろうか、自分の世代までの人間の描き方が極端だ、というのはあるが、その極端さが、それぞれ、憎めない可愛らしさ感を出す。
 長いドラマが終わる、そんな感じがいっぱいに漂いながらも、基本的にはサラッと終わるラストも気持ちよい。

 主人公の彼女となるラウラが、70年代のシシー・スペイセクっぽいな、と。
 

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まさにコーヒー&シガレット。『OH BOY』

『OH BOY』(於・ドイツ文化会館ホール/ドイツ映画特集)

 タイトルの意味がぴったりこない。解説からも、主人公が、コーヒーにありつけるまでの、約一日を追った物語、ということはわかるが、そのもうひとつ、相対するものとして示される、タバコの火が面白い。はじめに、意外な手段を使って、印象を残させるが、あんな、へんな方法でタバコに火をつけなければ、コーヒーにありつけたんじゃないか、なんて意味のない運命論も考える。
 主人公の前に現われる、さまざまな、アクの強い人々。基本的に、彼は聴き上手なため、ことなきを得て、次の場面にたどり着いているように見えて、優柔不断さが相手を怒らせてしまってもいる。だが、それをひきずることはない。
 基本的に、彼は深い人間関係からは逃げる。そのため、取り返しのつかないことにもなり、かつ、優しさは、何かを引き起こすことはない。
 モノクロだが、撮り方、作劇そのものは術に凝ることはしない。街はあまりにもカラフルであろうから、モノクロにすることで、風景を黙らせている。

 キーワード的に言えば、まさに『コーヒー&シガレット』なので、ジャームッシュを意識しないわけには行かない。

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2013年7月 5日 (金)

キメぜりふの難しさ『欲望のバージニア』

『欲望のバージニア』
於・丸の内TOEI2

 ニック・ケイヴが脚本と知ってみているからか、すべてのセリフがヘタしたらキメゼリフ的なものに聴こえてきてしまう。邦題のイメージとは違い、つまりは、手段を選ばずに「取り締まろうとする」側と、それに抵抗する側の話である。
 ロック的な感覚といえば、いでたちはデフォルメ気味だが、アクションに関しては、必要最小限を保つというところだろう。実話であることの重視か、エグい表現にはもっていかないどころか、おそらく凄惨な現場であったろうシーンは、さらりと省略していたりする。
 とにかく、自分たちが主役を張れるあまりにも芸達者なキャストばかりを集めての群像劇だから、みんな、自分の役割分担(どこで出て、どこは出過ぎないか)の配分が絶妙すぎてかっこいい。
 そして、ドラマの集結としては、結局は、二組のカップルのラヴストーリーというところに落ち着かせる。女性の描き方が、いかにも男好みすぎるかもしれない、と思えるところは、これは最終的には、ファンタジーだな、娯楽映画だな、というところなのだろう。
 ヴォーカル(女性ヴォーカルはエミルー・ハリス!!)をフィーチャーしたナンバーをあっさり劇伴として使用していく。ここ、というところで一曲盛り上げる、といういかにもなドラマチックさは、しない。
 最終的には、ちょっと驚きのドラマなのだが、考えれば、ちょっと行き過ぎた演出も、中にはある、ということだ。

 オーソドックスなパンフレット。まず、禁酒法という時代についての論考を椎名誠氏が。そしてキャストの詳細をインタビュー付で。そしてジョン・ヒルコートとニック・ケイヴの詳細をインタビュー付で。なんといっても、ニック・ケイヴのスタッフとしての関わり方が異色なので、このインタビューは、他の映画とはちょっと違う。
 作品論は映画評論家の芝山幹郎氏で、往年の東映作品とダブらせて、日本の映画ファンにわかりやすく説く。そして、時代の解説とプロダクション・ノート。
 一応、プロダクション・ノート内に、言及する箇所はあるが、音楽コラムはあるべき作品なのだが、そこが残念。 

 ところで、自分としては、最も「キメゼリフ」として残ったのは、やはり、ジェシカ・チャスティンのあのセリフですね。

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2013年7月 1日 (月)

シンプルさの快感『小さな逃亡者』『恋人たちとキャンディ』『結婚式と赤ちゃん』

『小さな逃亡者』『恋人たちとキャンディ』『結婚式と赤ちゃん』
 於・アップリンク・ルーム
(モーリス・エンゲル=ルース・オーキン特集)鑑賞6/29

 それは、例えば、トリュフォーやジャック・タチそしてラストはカサヴェテスを思わせるということはいえるのだが、この、特に前2本の存在は、多分、ドラマとしてのバランスは欠いてもいいから、観たい場面に遭遇したら、その場面は長く見せ続ける、そしてそれが独特のユーモアになっていたりする。そして、未たい場面が長いことによって生じるのは、シンプルなストーリーである。『小さな逃亡者』は、弟が遊園地で遊ぶシーンがひたすらに長いわけで、その長さの中で、本当は逃亡の意味や、自分が逃亡者であることを隠したいための工作であるとかからはじまっているはずなのだが、もう、ただ遊んでいるだけに純化されてしまっている時間がかなりある。この逸脱する感じが、長い短編『小さな逃亡者』を楽しませる要因だろう。

 『恋人たちとキャンディ』でのしつこさといえば、なんといっても、博物館内の池の真ん中に進んでしまったヨットを取り出さんと四苦八苦するくだりだろう。こここそ、必要以上に長く見せることが、オフビートな笑いを生み出している。映画が始まってから、ずっと登場人物たちの心の距離はほぼ変わることがない。そういうものであるし、この絶妙のバランスこそが、よい状態といわんばかりに、まるですれ違いを本人たちも楽しんでいるかのようにすれ違い続けている。

 モーリス・エンゲル単独で撮っている『結婚式と赤ちゃん』は、前2作にあった無邪気さを受け持つ人間が主人公たちで見当たらず、周囲の人間たちによって演じられる。ひょっとして、ルース・オーキンとともに撮っていたならば、「赤ちゃん」の意味がもっとクローズアップされたかもしれない、と思えるほどに、この物語は、いわば、タイトルのような世界を夢見ながら、現実化できない物語なのである。

 いずれも、独特のシンプルさが漂うことは間違いない。この、シンプルさゆえの快感は、個人映画てきなものだからこそ生み出されるものなのだろう。

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