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2013年7月30日 (火)

画面の中で身を隠したい主人公の肉体が蠢いている『ファンタズマ』

『ファンタズマ』於・オーディトリウム渋谷(ジョアン・ペドロ・ロドリゲス・レトロスペクティヴ)鑑賞7/27

 物語は物語然としなくてもいいのだが、その奈落への落ち方が心地よい。やはり、例えば男女が愛欲の末に、みたいな形でのドラマと同じだと思うのだが、少年ひとりが、暴力というのでもない一方的な衝動にただひたすらひきずられていく。
  その後に作られるほかのロドリゲス作品の、ひとつの作品での多様性ではなく、これはひとつの衝動を深く深く突き進ませるものだ。
  アングルは据えられたままでほぼかわることのない画面の中で、自分は主人公ではなく、いつも隠れているつもりのような、少年の肉体。この、まるで、映されないでいようとするものが映っているものを観客はただ見つめ続ける。ときどき、画面は、その少年を映すことに積極的でないがために、少年の肉体も、なにか、うごめいているものが、画面の中で映っている、そんな状態におちいる。テーマとか物語とかを通り超えて、自分は何を見ているのか、感さえ漂ってくる。
 自虐的な甘さというか、この、観客を戸惑わせる感情を引き込んで映画の世界とミックスさせるかのような感覚は、一度味わうと、クセになるのだろうけれど、そういう作品には、なかなか出会わない。

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