« 画面の中で身を隠したい主人公の肉体が蠢いている『ファンタズマ』 | トップページ | 重ねられた意味をただ見つめる濃密な時間『ソレイユのこどもたち』 »

2013年7月31日 (水)

マントヴァーニに謝れ、もしくは「時間よとまれ」的なもの『サウンド・オブ・ノイズ』

『サウンド・オブ・ノイズ』於・シネマカリテ(鑑賞7/27)

 いわば、ゲリラアートの話を、犯罪ドラマの手法で描いているわけだけれども、いくつかの、その要素ひとつとっても、ひとつの物語になりうるアイデアをいくつか組み合わせることによって、複雑な構造になっている。
 まあ、いわば愉快犯的な物語における「愉快犯」は、殺人などの深刻な罪の箇所をべつにすれば、ゲリラアート的な要素がある。今回の要素で言えば、ここに、追う側の裏をかくトリック的な部分はない?ために、音を出すパフォーマンスのみに、彼らは「アート」を考えているわけだ。
 さて、ここで気になったのは、初めの病院のくだりは別なのだが、トータル的に、表現者であるならば、それを世界に見せる手段が大切なはずなのだが、どうもその部分がなぜか欠けている場合があることだ。たとえば、なにか理由をつけて、テレビを待機させて、そこでハプニング的にパフォーマンスを行なうことで、世界に「目撃させる」というようなところがあるのだ。
 多くのゲリラアートの場合、残る「もの」がある。たとえば、町のオブジェに服を着せる場合、その着せる現場は見せられないとしても、そのあとに残る「服を着たオブジェ」ははっきりと記録されることができる。が、アートが「音楽」であるならば、その「演奏」の現場が記録されるか、生を目撃させる手段を作っておかないといけない。
 はからずも、ラストのアートは、その町の住民に体感させることができたことになるが、これも、もともと彼らのアイデアにはなかったものである。
 世の中にあるゴミのような「音楽」に喝を入れるべく成り立った演奏であっても、それが自分たちの間のみで終われば、抗議活動でもなんでもなくなる。
 また、いわばエレベーター・ミュージックが「ゴミのような音楽」の典型として語られているが、この箇所も、そのファンである側としては、彼らに感情移入はできない理由になってしまう。
 ちょっといじわるに考えてしまったが、ここでの、軽蔑される音楽は、刺激や興奮がなく生み出される音のことなのであって、「日常の延長線上のように作曲され」「ルーチンワーク的に録音され、耳にも興奮がない音楽」のことであるのだろう。ただし、そこでも、またそっち側のファンとして思うのは、おなじメロディが奏でられた録音、作品、であっても、そもそも、彼らの考える「音楽」とエレベーター・ミュージックは、存在価値自体が違うのだ。べつに、音楽としてなまけた作品が、結果そうなったわけではないのだ。マントヴァーニにあやまれ、的な。
 音楽を演奏することだけでは、刺激ではなくなった結果、演奏そのものを刺激的にする直接的な手段として、今回のような方法はとられる。
 ただし、その姿勢が貫かれたかどうかは疑わしいのは、彼らは、最後には、そのエレベーター・ミュージック側に戻らされることになる。が、一周して、そこに戻ってきて、案外、この音楽の存在価値が分からないでもない気だるい心地よさはそこにあるような気がするのだ。決して、『未来世紀ブラジル』のラスト的悲観さじゃないし、まあ、十分大人なんだけれども、丸くなった元不良のかっこよさがないわけでもない。
 矢沢永吉における「時間よとまれ」的なもの、ザ・ローリング・ストーンズの「哀しみのアンジー」的なもの、といったらいいんだろうか。もしくはロッド・スチュワートのジャズ・アルバムだったり・・・

|

« 画面の中で身を隠したい主人公の肉体が蠢いている『ファンタズマ』 | トップページ | 重ねられた意味をただ見つめる濃密な時間『ソレイユのこどもたち』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92257/57902328

この記事へのトラックバック一覧です: マントヴァーニに謝れ、もしくは「時間よとまれ」的なもの『サウンド・オブ・ノイズ』:

« 画面の中で身を隠したい主人公の肉体が蠢いている『ファンタズマ』 | トップページ | 重ねられた意味をただ見つめる濃密な時間『ソレイユのこどもたち』 »