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2013年8月29日 (木)

擬似youtube、考える暇のない当事者の切迫感、警官A的存在 『エンド・オブ・ウォッチ』

『エンド・オブ・ウォッチ』於・丸の内TOEI2(鑑賞8月24日)

  この映画も、いわば、今までの物語の語り口とは異なるところにある映画である。物語の整合性というよりも、当事者たちは、どう見えるのか、何だけがわかるのか、そういったことに忠実な物語である。
  フィクションは作り手はその後の運命を知っているばかりか、事件の全貌も知っているわけだから、不自然に知ってしまうタイミングなどをつい作ってしまいがちだが、この、まさにyoutubeのような映画は、自分たちが、実は、ヤバい犯罪のまっただ中を捜索してしまっているのだ、ということや、そういった日常のヤバいことが、愛すべき日常の愛すべき人たちとの瞬間の延長線上にあり、そこのメリハリなんて、自分たちにはわからない。
  情容赦ない、お仕事体験館の映像である。この、全くもっていい意味でのメリハリのなさは、観るものの感覚も麻痺させる。この麻痺の感覚も含めて、お仕事の擬似体験かも知れぬ。そして、この物語の特筆は、本当に本当に、おそらく「どこにでもいる平均的に正義感のある、普通の警官」であり、彼らの人間性や、人間関係にも、だからこそ彼らを追うドラマになった、というよう意味は、多分あえて、ないことである。この、無個性の警官A的主人公がいるからこそ、のめりこんで、観ることができてしまう。お仕事疑似体験の意味はここにもあって、「警官の一人であるかもしれない、自分もしくは自分の近しい人」を置き換えられる、ということでもある。
 この物語も、二部構成といえば、言えなくもない。が、前述の通り、主人公たちは、この物語は二部構成で、今、その後半に差し掛かったところだったんだぞ、なんてことは全くわかりもしないぐらい、本人たちには、全貌は見えないのだった。
 パンフレット。まず、ジェイク・ギレンホールのインタビューが、読み応えがあり、かつ、それ自体が気迫がこもっていて、感動的である。インタビューは、もうひとり、デイヴィッド・エアーのもので、このふたりのインタビューで、この作品が、娯楽的事件映画とは全く立ち居地が違うところにあることを理解させる。コラムは町山智浩氏が、この映画で描かれる現状の現実性について、そして川口敦子氏が、女性がこの映画を見るときの楽しみ方のような原稿。確かに、この映画は、見ればわかる、的に伝えたいことはしっかり見せて体験させるので、さらに詳しく知りたいところはどこか、を考えるのが難しい。
 そして、スタッフも技術面のメンツの経歴もカバー。音楽デイヴィッド・サーディについても、ちゃんとフォローしている。

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2013年8月27日 (火)

強固とした物語の上で舞うように編集された独白と映像の断片『トゥ・ザ・ワンダー』

『トゥ・ザ・ワンダー』於・TOHOシネマズ・シャンテ 鑑賞8月18日。

 テレンス・マリック作品で初めて経験したのは『天国の日々』だったと思うが、その時は、映像のあまりにもの美しさ、ということだけが意識に残っていた。モリコーネの音楽が、かなり具体的だったということもあろうが、比喩的な意味での映像詩、としかとっていなかった。『シン・レッド・ライン』は試写で観たと思う(つまり、まだ一般の映画ファンの声が出揃っていないころ)。戦争映画、というわりには(物語自体は『プラトーン』と比較されることが多い作品だったと思う)、モノローグの多い作品だった印象があるが、それもまた物語論を徹底的にうちのめすものには感じられなかった。ただ、今から思うと、静かなシーンが多く、モノローグの多いこの作品が、退屈ではけっしてなく、深いものをそれなりにすでに感じさせるものであったことで、この監督は、物語、を媒介にして、何か、もっと根源的なものを感じさせようとしているのだろう、とうすうす感じていたのだろうと思う。
 自分にとっては、その感じから『ツリー・オブ・ライフ』のぶっ飛びは、ちょっと異なっている。意識を遊ばせた先があまりに刺激的過ぎて、すっかり帰ってくるのを忘れてしまったかのような、あの流れは、まるで酒飲みが自分の限界を知るために、一度、吐くまで飲んでみた、そんな分岐点の様に思えるのだ。
 そして、『トゥ・ザ・ワンダー』である。これは、散文詩に実は物語が存在するものがあるように、物語が存在している。ひとつの厳然としたラブストーリーがあれば、それを語り、映像、いずれもが、理路整然とではなく、思い出の隙間を埋めていくように表現してみてもいい。物語自体に矛盾がなければ、それは感じ取ってもらえるはずである。
 ちょっと思い出したのは、映像の編集方法自体は、ウォン・カーウァイにも似ているのではないか。ただし、カーウァイの場合は、物語も判然としない。感覚がさらに重視される。マリックの場合は、物語の強固なものがまずあるだけに、そこから自由なリズムの編集が可能になる。
 もはや、マリック作品は、音楽も、具体的なものは入れない方が、よいのだろうかなぁ。

 パンフレット。意外なのは、主演4人のインタビューは、克明なのに、全く何もつかめない、ということ。いわゆる優等生的回答に徹したものばかりで、具体的な事項は一切入ってこないから、雲をつかむような感じ。
 コラムは三名。大場正明氏が、今回の語り口の理由を推理。大竹昭子氏は、氏なりの解釈の上での物語論、川口敦子氏がテレンス・マリックのプライベートにまで訴求しての監督論。確かに、こういった自由な語り口が許されることになれない向きには、このいずれかのよりどころは必要となるだろう。
 ただ、やはり、映像詩的に反芻したい場合は別。不思議、というか、そうなのか、というのは「テレンス・マリック自身のインタビューは、掲載されていない」ことである。

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2013年8月25日 (日)

まるでプレイボーイの別れ際のような『テイク・イット・イージー』

『テイク・イット・イージー』
(於・神保町シアター/吉川晃司映画祭)
8月23日鑑賞。

 最終作品であることを思いっきり意識した第三作。過去ニ作では終盤で登場していた宍戸錠は初盤に登場し、今回は音楽面も、よりしっかり見せたいとばかり、長めのライヴシーンから始まる。思いっきり、伏線ですよといわんばかりの伏線が引かれ、観るものを覚悟?させ、ラストは、PV風に終わって見せる。
 ただし、『すかんぴんウォーク』の親しみやすいカッコよさ、娯楽アクションの小気味よいテンポに徹した『ユー・ガッタ・チャンス』に比べて、「今回は、この感じでいくので、よろしく」的な調子にはならない。強いて言えば、三部作の中で、最も、ラブストーリー色が濃い、ということだろうが、その部分に特化することなく、オールジャンルなアイデアは次々繰り出されているので、テンポは統一されることはない。まるで、この混沌さが「裕司シリーズもそろそろ潮時ですよ」感を表現しているかのよう。これは、そろそろ潮時なタイミングで、まるで女性から別れを切り出したくなるように仕向けて去っていくプレイボーイのようである。計算された不器用さの気がする。
 吉川三部作は、いわば後のタランティーノ作品のように、過去の映画たちへの膨大なオマージュで仕上がっている、そこがオリジナリティとでもいうべき作品群である。が、その吉川三部作へのオマージュが、後の邦画などに登場するわけだから、映画の楽しさは受け継がれていくのである。
 吉川三部作の場合、映画ファンならずとも見るであろう、トップ・アイドルのアイドル映画で行なえたことが意味がある。そのために、ここから映画人生が始まった少年少女も少なくないだろうからである。

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主人公たちとともに時を過ごすというのではないのだが『返事はいらない』

『返事はいらない』於・オーディトリウム渋谷(廣原暁監督特集) 鑑賞8月19日。

 見つめ続けることを退屈にさせない。それも、華やかな空間じゃなくて、限りなく、リアルに乱雑に散らかされた、生活感たっぷりの部屋をじっくり見せる。
何もいわないこと、返事をしないこと、答えを求めないこと、物語を転がすことに全くこだわらないこと。そういった、今までの「物語」に対しての柔らかな反抗があると思うのだが、本作は、かなり、物事は変化する物語だ。
 でも、起こる事象は複雑ではなく、言葉にすれば簡単なのかもしれないが、言葉にできないことによって、のこまの進み方。主人公の、SEをサンプリングしての曲作りへの逃避は、逃避というサイレントな事象を、音を使って具現化させ、かつ、それをシリアスにではなく表現する、というおしゃれなワザを使っている。
 本作は、そんな中「言葉にがんばってしてみたことで起こる、悲劇?」。本当に、彼は、彼女と結婚したかったから言ったのか。うまく言葉を見つけられず、今の言葉とはニュアンスの違うものを選んでしまったのではないか。

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2013年8月24日 (土)

『はいかぶり姫物語』の長回しからいろいろと思うこと

『はいかぶり姫物語』於・映画美学校エクラン(鑑賞8月11日/PFFスカラシップのすべて)

 この2本だけじゃないんだろうけれども『はいかぶり姫物語』のリメイクをあたかも見たように、『返事はいらない』を観て思ったのは、主人公2人の関係性はもとより、「着るシーンの長回し」にある。はいかぶりは女性、返事は、は男性が、それぞれ着るシーンだが、ともに、コトがあったあとの着衣である点は似ている(ただの寝起きではない)。
 着替えを見られるのは、全裸状態を見られるより恥ずかしい、とはよく聴くので、着替えは、全裸以上に、プライベートなものを見ている感覚が起こるのではないか、と思う。そして、脱ぐ方は、脱いだ後の方に観るものの意識もいってしまうので、着る方を見せたほうが、その瞬間への興味が湧くことになる。また、プライベートな状態から、少しずつ、外向きの姿に変わっていく様を観るのは、ある意味「変身」する瞬間を見ることができている、といっていいのではないか、と思う。
 『はいかぶり姫物語』における長まわしは、その1シーンの間に、何度も複雑な心理推移が男女の中で起こるのを見つめようとする。カットわりだと、その心理推移の理由を推測する楽しみを見る側に与えるのだが、長回しは、その普段見せない部分を見せるわけで、着替えシーンを見せるようにプライベートを見せる感がやはりある。
 『人のセックスを笑うな』の井口監督が書くか答えるかしていたと思うのが、役者がすばらしい演技、動き、輝きをみせている時に、当初から予定している時間数で紋切り型にカットするのではなく、すばらしい瞬間が続いているのだからもったいないとばかり、つい長く回してしまう、というところ。『人のセックス』は、必要以上に上映時間が長いと思うけれども、井口映画のそれは、物語を語る以外のところで、上記のような考えの下に、観客としての監督のわがままをそのまま実現させている、まさしくぜいたくな時間を同時体験しているわけで、これはこれですばらしい映画体験ではある。

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2013年8月22日 (木)

現役映画ファンの映画として突っ走った『ユー・ガッタ・チャンス』

『ユー・ガッタ・チャンス』於・神保町シアター(吉川晃司映画祭)8月16日鑑賞。

  『すかんぴんウォーク』でも、その片鱗は見せていつつも、少年のデビューまでの物語、という、比較的、自由にはできない大きな枠があって、その中での冒険だったと思う。
 が、おそらく、この2作目が最ものびのびといろんな遊びができるチャンス、それこそ、映画自体にとってもユー・ガッタ・チャンスなのは、自覚して作られていて、そういう映画だよ、という宣言が、冒頭のボンド・パロディに現われている。
 次々に繰り出される小ネタの数々と、派手でお金使いました感を出す展開。その中には、一作目、もしくは、ここまでの裕司をネタにしたギャグが次々炸裂。東宝での公開でありながら、明らかなる日活アクションへの敬意。そして、それは丸山昇一の、普通だったら、かっこつけすぎてどうしようもないセリフの数々が、それを吹っ切った世界の中では、ことごとくそれが快感となる、という、松田優作『探偵物語』などのハードボイルドに青臭さをスパイスとして追加した世界がそのままスライドして展開している。当時、まだ新作の『ストリート・オブ・ファイヤー』のガキガキ・シーンチェンジの早くもの模倣(これは、公開当時に、みんなで話題にした記憶がある)など、現在の映画においても映画ファンであることをしめす大森一樹のあくなき現役映画ファン宣言も心地よい。
 ネタのパッチワークによって作り上げられる長編は、森田芳光や滝田洋二郎の作品にも伺えたが、大森のそれは、最もはずかしいぐらいに、映画に根ざしていた。
 前作は巨匠、宮川泰が軽やかながら本格派な劇伴をつけて、そこがまたちょっと現代っ子映画ではちょっとない感じを聴かせたが、本作の大村雅朗のスコアは、完全にロック・インストのりの、若者発想のサウンド。その中で、愁いをおびたナンバーが意外に多く、これがまたしみてすばらしい。

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2013年8月18日 (日)

説明のつかない感情を説明すること『世界グッドモーニング!!』

『世界グッドモーニング』於・オーディトリウム渋谷
鑑賞8月12日(廣原暁監督特集)

  20代前半の頃の作品のため、主人公の少年の心情を見事に描写、というよりは、自身の感情を映画言語に翻訳することにすでに長けている、という言い方の方がよいのかもしれない。
  私が、このもやもやの端的な要因として興味を引かれるのが、「母親が用意するコンビニ弁当」であり、ある事情で、部屋に入れてもらった女性が用意する「おいしくなさそうなケーキ」である。特に前者は、今まで、劇映画の中で観た記憶がないのだが、あまりにもリアルなひとつのように思えてしかたがない。女性の部屋の雑然さも、あまりにも今までの範囲内での映画的光景とはかけ離れているがために、映画の中において「非日常」さをかもし出す。
  女性の部屋を訪ねたときから始まる、少年の、ある意味冒険旅行は、だが、しかしアッパーさを全く持たない。動機が後ろ向きなだけに、冒険的な感覚は全くない。できれば近場ですませてほしいぐらいの勢いである。
  少年は無表情で、感情は顔にではなく、体で表現している。大体、自分に与えられるいろんな情報が、自分にとって、喜怒哀楽のどれに導かれるものなのか自体がわからないものだし、そして、彼の中には、もういいや、ホッポリ出してしまおう、という感覚になっても構わない、逃げへのバッファが常にある。負の余裕とでもいうのだろうか。
  非日常な空間の中での、孤独な思考は、いつものそれとはちがうはずだ。別に、何かの答えを見つけたというわけではないのだが、ひとつの区切りをつけた象徴のように、彼の心情のかわりに気球が飛ぶ。
  こういった、「説明のつかない感情」の説明、ほど、映画的なものはないだろう、と思う。文学よりも、それは映画のものだろう。

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2013年8月14日 (水)

マッドマックス的オーラの舞台設定の中で。『大いなる学生』

『大いなる学生』(於・映画美学校エクラン/PFFスカラシップのすべて)
鑑賞8月11日

 この作品のユニークな点は、一にも二にも、ドラマがなぜか、いずれも屋外で行なわれるということだ。もちろん、予算の話がはじめにあるのだろうと思うが、屋外で行なわれることで、それこそ、不思議なワイルドさが出ている。地味な設定なのだが、マッドマックス的なオーラがなぜかそこにまとわられているのである。
 もちろん、ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』のように、舞台のほとんどは、見る側のイマジネーションが補え、という解釈もあるかもしれない。その解釈しかありえない展開の部分もいくつかあったと思う。ただ、未来という設定がまた、なぜか野外でドラマが起こることについて、100年後はこうなんだ、という暴力的な設定の言い訳になっているのだろうとも思う。
 いずれにせよ、そんな、映画的に魅力的な設定の空間を与えられて、そこで、この地味なドラマ、という落差がまた、まるでジャームッシュ映画的オフビートな笑いに転嫁されることになる。
 実験作が可能な時にしか作ることはできないだろう映画であることは、確かだと思う。

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2013年8月13日 (火)

実写女子高生版"ぱにぽに"じゃないか?『イみてーしょん、インテリあ。』

『イみてーしょん、インテリあ。』
(於・映画美学校エクラン/PFFスカラシップのすべて)鑑賞8月11日

もう、この感じの映画?には、なかなかお目にかかれない。自主も含めて、この感じの壊れ方をしている作品は、一般上映でかかることはあるのだろうか。
幸運なのは、やはり、この作品が、PFFスカラシップでも一回目であったがために、製作・完成が許された一作のように思える。何回目かで、同じものは、ありえない。
いわば、整いすぎた、ということもある。今のインディーズ映画の、ある意味、あまりにも上手いことよ。その反面には、「こんな上手い映画を見に来たんじゃない!」と怒りになることもあったりする。
そういったモヤモヤが完全に吹き飛ぶ一作なのだが、それは、ひょっとしたら、今や「いきなり、一度も映画を撮ったことのない女子高生に、一本監督させる」という暴挙?をさせていない、ということだけかもしれず、今でも、その年齢にしかできない感覚は爆発させるかもしれない。
常に、いわゆる一般的に見て、会話が成り立っている会話はほとんどなく、でも、作中の女子たちは意思疎通を不思議に思うことなく、成り立たせている。それは、この映画の中で登場する言語そのものは、流行語的なものではないが、女子高生(という宇宙人のような存在)たちならではの特別で普通な裏の意味がはっきりあるのだろうと納得させられる。
 これ、アニメでやったら、普通に「ぱにぽに」じゃないか?とも気づいたりして。 

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2013年8月12日 (月)

期待通りの青臭さという技巧『すかんぴんウォーク』

『すかんぴんウォーク』於・神保町シアター(吉川晃司映画祭)鑑賞8月10日

当時、そんな言い回しが定着していたか覚えがないが、いわゆる「突っ込みどころ満載」の映画であり、このいちいちの遊び方が、森田芳光映画のシュールな遊び方と違って、すぐに突っ込み方がわかるコント的な遊びを絶やさない。そして、それらをメジャー映画ならではの豪華キャスト+自身の映画仲間の個性派キャスト+映画好きにとってあこがれの俳優、が入り乱れて登場、いわば、その個性的な役者陣が、入れ替わり立ち代り、晃司(裕司)の前に来ては、いろいろと「教えてくれる」、ざっくりいうと、そういう図式である。
そして、そこに、自分が起用されたからには、その意味発揮とばかり、映像でも遊びまくる。この場合、主に、編集の遊びと思われる。そして、その中で、やはり、映画好きならではの固有名詞が、はずかしいぐらいに散りばめられることになる。
この記号の入れ込み方は、近年の大根仁『モテキ』の「もし記号自体の意味がわからなくても、それが物語の理解の障害にはならないサブカル記号の散りばめ方」に似ている。散りばめられているコネタにつぐコネタは、その個別の意味がわからなくとも、テンポなどで軽快に楽しく見進めることができるのだ。
全体として、ファンに「面白かった映画」として記憶させるための具体的な方法。この『すかんぴんウォーク』『モテキ』的娯楽物語構築は、どうも『あまちゃん』にも受け継がれているようなのだが、あまりに早急に消費してしまうには勿体無い調理方法のような気はする。

 そして、この映画がDVD化されないことについて、「ここが理由かな、ここかなそこかな」と、まあ、個人内面的にうるさいことよ(あくまで自分対自分)。

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2013年8月11日 (日)

昭和の母娘ならでは?の心情を丹念に描く『この空のある限り』

『この空のある限り』於・神保町シアター(銀幕の森光子)

ドラマの中に、いくつかの、それを主眼としてドラマを膨らませられるのに、それをしない部分があるが、それは、ひとつの家族のドラマの中で、さまざまな登場人物が、それぞれの個性を表現するために自然発生、という風に考えれば短所ではない。が、夫の弟の子を一旦引き取る(エピソードというには膨らまない)展開は、わからない。
物語の中盤までは、さまざまに散りばめられたドラマの破片が、どれを主軸に進んでいくのかわからない不安さをかきたて、その破片のひとつとして、あの少年は存在したのか。
後半は、森光子の主人公(鰐淵の方がそれとも主人公?)と実母の心のやり取りがメインになっていくが、この心のやりとりの主眼が、いかにも、おそらく昭和の母娘の姿ならではの部分に集約されていて、しかも、それについての部分にかなりを費やすので、ここに、この映画のユニークさがある。
ラストが感心したが、それは、ドラマのメインに据えても不思議ではなかったひとつの要素を、完結させる前に、それはあくまで風景でしかない、といわんばかりに答えを出さずにさらっと終わってしまうということだ。ここがあるため、この映画は、主人公は鰐淵ではなく森なのかな、と思ったりする。もちろん、どっちでもいいんですけれど。

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2013年8月 3日 (土)

登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』

『強情親爺とドレミハ娘』(於・神保町シアター/銀幕の森光子)

 1957年の日本の喜劇映画は、はっきり初体験だったが、落ち着いて、リラックスして楽しめたのは、そのスタイルが、小さい頃から慣れ親しんだ、大阪は吉本新喜劇(毎週2演目は、テレビで見ることができた)の話のパターンと、基本的に変わらなかったからだ。
 それにしても、下町のすし屋の玄関先の道に、下水工事と称して大きな穴というか溝が掘られ、登場人物たちは、常に、その泥道をまずまたいでからメインの舞台となるすし屋に入る、という設定は、なんとアバンギャルド。
 映画的には、この効果は何なのか。「たいへんだたいへんだ」といって、駆け込んでくることができなくなる、というパターンへの挑戦か。
 ついつい芸好きの親父がうなると、その芸に町中の人間が集まったり、何かの噂が立つと、なんだなんだと騒ぎ立てる図は、今リアルには見られなくとも、軽いSNSでのやわらかい「炎上」の具現化に見えてくる。今の人間関係は、バーチャルも含めるとして、ドラマとして具体化するのは、困難になっていくよなぁ、なんて考えたりする。
 ペギー葉山の若い歌声が楽しい。テレビの素人のど自慢的番組で歌う「そよ風と私」は、イージーリスニングでも定番のレパートリーなので、自然に楽しめた。

 例えば、SNSで起った事件などを、そのやりとりをリアルに置き換えた設定にして構築したら、バーチャルにインスパイアされたリアルのフィクションというものは作れるだろうな、と、今でもこんな感じのドラマが作れないかな、と模索してみる。

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重ねられた意味をただ見つめる濃密な時間『ソレイユのこどもたち』

『ソレイユのこどもたち』於・K’s CINEMA(鑑賞7/28)

 ドキュメンタリーの画面の不朽の魅力は、そこに映されるもののほとんどが、長い歴史を重ねて、少しずつ変化し、体系付けられて整理されて、存在する景観である、という事実であり、その意味の映し手と観客の相互了解にある。
この映画で記録されている風景は、さまざまな理由と歴史とさまざまな人間たちのドラマを経て、それに疲れたかのように、そこに映っている。そんなことは気にせずに、いや、気づいてはいてもだから何、という態度で生きることの楽しさを表現するのは犬たちであったり、少し触れ合う瞬間がある近所の少年たちであったりする。
 風景と、そこに溶け込むBGMとしてのSE的自然音の面白さは、川沿いであったり、山中であったりすると、音が耐えることが絶対にないところ。この映画でも、常に、水の音はささやいている。そこに時々、モーターボートのモーターの音が溶けたりする。
 老人が、黙々とたたずんだり、何かの作業をすることに、そこにも長年のドラマの上に成り立つ柔らかい重厚さがあって、その作業を姿を見るだけで、本当に時間はどんどん経ってしまう。それは、老人への親しみとか敬意とかともちょっと違って、どこか、やはり「叙事詩的作品の、物語の主人公」として見つめている部分があるのだ。
 この映画もいわば「観察映画」である。それは観察映画ではなかった『阿賀に生きる』の老人たちへのまなざしがまずあって、そこから発展しての冷静な視点が都会の川に生きる老人を見る。
 一見、ハードボイルド的なテイストで貫かれるかな、と思っていたら、ラストで意外な映像が捕らえられることになり、映画の色そのものが違った意味合いを帯びてくる。ハッピーエンド的なものとアンハッピーエンド的なものが並行するのだ。ただし、言いようもない、意外な幸福感は襲ってくるので、その感覚が、以前のキューバ映画『永遠のハバナ』を思い出さずにはいられなかったりしたのだった。

 パンフレット。発売されている。表紙がまず詩的ですばらしい。原稿は監督自身の思いをつづった長文と、ブック・デザイナーの鈴木一誌氏の作品論、そして監督の「映画制作ノート」が5ページにわたってカラーで掲載。いわばシナリオ採録の替わりにあたるものと思われるが、これがまた、監督の真摯かつアーティストとしての熟考のあとを見ることができて、意味をもつ。

 こういった「事件の記録ではない」「何気ない時間の記録こそが、本当は重要である」的ドキュメンタリーは、個人的には、もっと見たい。(『三姉妹 雲南の子』も、そんな映画だった)

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