« 登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』 | トップページ | 期待通りの青臭さという技巧『すかんぴんウォーク』 »

2013年8月11日 (日)

昭和の母娘ならでは?の心情を丹念に描く『この空のある限り』

『この空のある限り』於・神保町シアター(銀幕の森光子)

ドラマの中に、いくつかの、それを主眼としてドラマを膨らませられるのに、それをしない部分があるが、それは、ひとつの家族のドラマの中で、さまざまな登場人物が、それぞれの個性を表現するために自然発生、という風に考えれば短所ではない。が、夫の弟の子を一旦引き取る(エピソードというには膨らまない)展開は、わからない。
物語の中盤までは、さまざまに散りばめられたドラマの破片が、どれを主軸に進んでいくのかわからない不安さをかきたて、その破片のひとつとして、あの少年は存在したのか。
後半は、森光子の主人公(鰐淵の方がそれとも主人公?)と実母の心のやり取りがメインになっていくが、この心のやりとりの主眼が、いかにも、おそらく昭和の母娘の姿ならではの部分に集約されていて、しかも、それについての部分にかなりを費やすので、ここに、この映画のユニークさがある。
ラストが感心したが、それは、ドラマのメインに据えても不思議ではなかったひとつの要素を、完結させる前に、それはあくまで風景でしかない、といわんばかりに答えを出さずにさらっと終わってしまうということだ。ここがあるため、この映画は、主人公は鰐淵ではなく森なのかな、と思ったりする。もちろん、どっちでもいいんですけれど。

|

« 登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』 | トップページ | 期待通りの青臭さという技巧『すかんぴんウォーク』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92257/57967197

この記事へのトラックバック一覧です: 昭和の母娘ならでは?の心情を丹念に描く『この空のある限り』:

« 登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』 | トップページ | 期待通りの青臭さという技巧『すかんぴんウォーク』 »