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2013年8月 3日 (土)

登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』

『強情親爺とドレミハ娘』(於・神保町シアター/銀幕の森光子)

 1957年の日本の喜劇映画は、はっきり初体験だったが、落ち着いて、リラックスして楽しめたのは、そのスタイルが、小さい頃から慣れ親しんだ、大阪は吉本新喜劇(毎週2演目は、テレビで見ることができた)の話のパターンと、基本的に変わらなかったからだ。
 それにしても、下町のすし屋の玄関先の道に、下水工事と称して大きな穴というか溝が掘られ、登場人物たちは、常に、その泥道をまずまたいでからメインの舞台となるすし屋に入る、という設定は、なんとアバンギャルド。
 映画的には、この効果は何なのか。「たいへんだたいへんだ」といって、駆け込んでくることができなくなる、というパターンへの挑戦か。
 ついつい芸好きの親父がうなると、その芸に町中の人間が集まったり、何かの噂が立つと、なんだなんだと騒ぎ立てる図は、今リアルには見られなくとも、軽いSNSでのやわらかい「炎上」の具現化に見えてくる。今の人間関係は、バーチャルも含めるとして、ドラマとして具体化するのは、困難になっていくよなぁ、なんて考えたりする。
 ペギー葉山の若い歌声が楽しい。テレビの素人のど自慢的番組で歌う「そよ風と私」は、イージーリスニングでも定番のレパートリーなので、自然に楽しめた。

 例えば、SNSで起った事件などを、そのやりとりをリアルに置き換えた設定にして構築したら、バーチャルにインスパイアされたリアルのフィクションというものは作れるだろうな、と、今でもこんな感じのドラマが作れないかな、と模索してみる。

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