« マントヴァーニに謝れ、もしくは「時間よとまれ」的なもの『サウンド・オブ・ノイズ』 | トップページ | 登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』 »

2013年8月 3日 (土)

重ねられた意味をただ見つめる濃密な時間『ソレイユのこどもたち』

『ソレイユのこどもたち』於・K’s CINEMA(鑑賞7/28)

 ドキュメンタリーの画面の不朽の魅力は、そこに映されるもののほとんどが、長い歴史を重ねて、少しずつ変化し、体系付けられて整理されて、存在する景観である、という事実であり、その意味の映し手と観客の相互了解にある。
この映画で記録されている風景は、さまざまな理由と歴史とさまざまな人間たちのドラマを経て、それに疲れたかのように、そこに映っている。そんなことは気にせずに、いや、気づいてはいてもだから何、という態度で生きることの楽しさを表現するのは犬たちであったり、少し触れ合う瞬間がある近所の少年たちであったりする。
 風景と、そこに溶け込むBGMとしてのSE的自然音の面白さは、川沿いであったり、山中であったりすると、音が耐えることが絶対にないところ。この映画でも、常に、水の音はささやいている。そこに時々、モーターボートのモーターの音が溶けたりする。
 老人が、黙々とたたずんだり、何かの作業をすることに、そこにも長年のドラマの上に成り立つ柔らかい重厚さがあって、その作業を姿を見るだけで、本当に時間はどんどん経ってしまう。それは、老人への親しみとか敬意とかともちょっと違って、どこか、やはり「叙事詩的作品の、物語の主人公」として見つめている部分があるのだ。
 この映画もいわば「観察映画」である。それは観察映画ではなかった『阿賀に生きる』の老人たちへのまなざしがまずあって、そこから発展しての冷静な視点が都会の川に生きる老人を見る。
 一見、ハードボイルド的なテイストで貫かれるかな、と思っていたら、ラストで意外な映像が捕らえられることになり、映画の色そのものが違った意味合いを帯びてくる。ハッピーエンド的なものとアンハッピーエンド的なものが並行するのだ。ただし、言いようもない、意外な幸福感は襲ってくるので、その感覚が、以前のキューバ映画『永遠のハバナ』を思い出さずにはいられなかったりしたのだった。

 パンフレット。発売されている。表紙がまず詩的ですばらしい。原稿は監督自身の思いをつづった長文と、ブック・デザイナーの鈴木一誌氏の作品論、そして監督の「映画制作ノート」が5ページにわたってカラーで掲載。いわばシナリオ採録の替わりにあたるものと思われるが、これがまた、監督の真摯かつアーティストとしての熟考のあとを見ることができて、意味をもつ。

 こういった「事件の記録ではない」「何気ない時間の記録こそが、本当は重要である」的ドキュメンタリーは、個人的には、もっと見たい。(『三姉妹 雲南の子』も、そんな映画だった)

|

« マントヴァーニに謝れ、もしくは「時間よとまれ」的なもの『サウンド・オブ・ノイズ』 | トップページ | 登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92257/57915970

この記事へのトラックバック一覧です: 重ねられた意味をただ見つめる濃密な時間『ソレイユのこどもたち』:

« マントヴァーニに謝れ、もしくは「時間よとまれ」的なもの『サウンド・オブ・ノイズ』 | トップページ | 登場人物たちはまず泥穴を跨いでから芝居する『強情親爺とドレミハ娘』 »