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2013年8月27日 (火)

強固とした物語の上で舞うように編集された独白と映像の断片『トゥ・ザ・ワンダー』

『トゥ・ザ・ワンダー』於・TOHOシネマズ・シャンテ 鑑賞8月18日。

 テレンス・マリック作品で初めて経験したのは『天国の日々』だったと思うが、その時は、映像のあまりにもの美しさ、ということだけが意識に残っていた。モリコーネの音楽が、かなり具体的だったということもあろうが、比喩的な意味での映像詩、としかとっていなかった。『シン・レッド・ライン』は試写で観たと思う(つまり、まだ一般の映画ファンの声が出揃っていないころ)。戦争映画、というわりには(物語自体は『プラトーン』と比較されることが多い作品だったと思う)、モノローグの多い作品だった印象があるが、それもまた物語論を徹底的にうちのめすものには感じられなかった。ただ、今から思うと、静かなシーンが多く、モノローグの多いこの作品が、退屈ではけっしてなく、深いものをそれなりにすでに感じさせるものであったことで、この監督は、物語、を媒介にして、何か、もっと根源的なものを感じさせようとしているのだろう、とうすうす感じていたのだろうと思う。
 自分にとっては、その感じから『ツリー・オブ・ライフ』のぶっ飛びは、ちょっと異なっている。意識を遊ばせた先があまりに刺激的過ぎて、すっかり帰ってくるのを忘れてしまったかのような、あの流れは、まるで酒飲みが自分の限界を知るために、一度、吐くまで飲んでみた、そんな分岐点の様に思えるのだ。
 そして、『トゥ・ザ・ワンダー』である。これは、散文詩に実は物語が存在するものがあるように、物語が存在している。ひとつの厳然としたラブストーリーがあれば、それを語り、映像、いずれもが、理路整然とではなく、思い出の隙間を埋めていくように表現してみてもいい。物語自体に矛盾がなければ、それは感じ取ってもらえるはずである。
 ちょっと思い出したのは、映像の編集方法自体は、ウォン・カーウァイにも似ているのではないか。ただし、カーウァイの場合は、物語も判然としない。感覚がさらに重視される。マリックの場合は、物語の強固なものがまずあるだけに、そこから自由なリズムの編集が可能になる。
 もはや、マリック作品は、音楽も、具体的なものは入れない方が、よいのだろうかなぁ。

 パンフレット。意外なのは、主演4人のインタビューは、克明なのに、全く何もつかめない、ということ。いわゆる優等生的回答に徹したものばかりで、具体的な事項は一切入ってこないから、雲をつかむような感じ。
 コラムは三名。大場正明氏が、今回の語り口の理由を推理。大竹昭子氏は、氏なりの解釈の上での物語論、川口敦子氏がテレンス・マリックのプライベートにまで訴求しての監督論。確かに、こういった自由な語り口が許されることになれない向きには、このいずれかのよりどころは必要となるだろう。
 ただ、やはり、映像詩的に反芻したい場合は別。不思議、というか、そうなのか、というのは「テレンス・マリック自身のインタビューは、掲載されていない」ことである。

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