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2013年9月 1日 (日)

プロローグ3ページのみの映画化、そんな異色かつ独特の世界『HOMESICK』

『HOMESICK』於・オーディトリウム渋谷 鑑賞8月24日。

 廣原監督の作品は、いずれも「ひとりの人間の、状況」の映画であって、物語、ではあるのだけれども、物語、というところにはいない気がする。
 一見、『HOMESICK』も「あらすじ」は200字もあれば、書けてしまうぐらいのシンプル?なもののように見えるが、それをミリ単位で細かく刻んで引き伸ばして見せる、というか、そのために、今までの映画表現ではカットされていたはずの時間が残っている。が、この「カットしていない、一見、物語は進展していない数分」は、見る者に、主人公の呼吸と同期させる間を与えている、とでもいうのだろうか、「一見、何も描いていないようで、緻密な描写が気づかないレベルで行なわれている」のではなくて、本当に、そのままの長さを提示するのだけれども、そこでは、リアルな時間経過こそが、この主人公の心情を理解させるために必要なのだ、ということを直感で気づいている、そんな感じなのだ。
 そして、廣原長編作品の常で、これも映画の時間内での主人公の他者との接点が一見少ない。が、今回は「子供たち」との接点がある。
 これは、どうも、自分の勝手な想像の可能性高そうなのだが、この「子供たち」の存在がファンタジー性に満ちているな、と。それは唐突に、自分が夢の世界に迷い込んだようにやってきて、それは、過去の自由研究の工作の再現であったり、かつて自分が住んでいた団地に住む男の子との少し深い交流であったり、と実は「過去の自分」という空想と戯れているのではないか、と思えてくる。いわば、子供たちは『ファイトクラブ』におけるブラピの位置にあるのだ。
 奥田嬢がヒロインっぽくキャスティングされつつも、自身のパロディのようなおなじみのキャラ(それゆえのオファーだろうが)そのままで事務的に接するのみで、接点がそこだけで終了するのも、今までの映画ではありえないことだ。
 奥田嬢が、主人公が立ち退いた後に見つける写真で、いろんなものに、少し血が通う感じがする。あの一枚がなければ、そうとういろんなものが回収されずに悲惨な物語の途中、というだけで終わってしまう。
 新たな一歩を踏み出す青年を描いた物語の、プロローグ3ページのみの映画化。そんな感覚の、あまりにも個性的な作品である。

 そんなわけで、次作は原作ものを準備中、とのことですが、「プロローグのみの映画化」とか、してみてほしいなぁ。

 パンフレット。博報堂の原田曜平氏によるさとり世代論、廣原監督のインタビュー、川口敦子氏が、過去の映画史上の作品を引用しての映画論、監督とトクマルシューゴ氏の対談、相田冬二氏の、詩のような印象論。・・・やはり、監督のインタビューに勝るものはない。
 黒沢清、青山真治監督あたりとの対談とかを読んでみたかったが、それは次作のパンフかな。

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