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2013年9月29日 (日)

実はシリアスで悲しい物語『ティファニーで朝食を』

実はシリアスで悲しい物語『ティファニーで朝食を』於・横浜シネマ・ジャック

  サントラだけは、もう血となり肉となるほど、聴き倒している作品ながら、意識してちゃんと鑑賞したのは、今回がはじめてである。断片的に有名なカツトは知りつつも、全編見ないと実際がわからない好例とも言える作品である。
 まず、感じられるのが、マンシーニによる、数々の音楽が、あらためて、冷静に考えると、第三者的には「ものすごいミスマッチ」な音楽なのだ、ということ。もしくは、主人公ホリーが、自分がそうありたいと自身にさえも嘘をついて、夢を見ている状態のBGMであって、冷静に、この物語を映像化すれば、そこにはあれほどにスウィートなメロディは流れないだろう。
 前半のマシンガンのような早口トークで、ホリーのニセ者感は出ているが、このマシンガン口調は、作家と知り合ってからは、出てこない。が、時々に現われる一点(一分)豪華主義的シーンで、甘いメロディが生きてくる。が、この場合、甘ければ甘いほど、悲しみが出てきますね。
 「ムーン・リバー」を歌うシーンも、有名だが、あのシーンも「一分豪華主義」に則った箇所であり、彼女の虚の部分を表す。
 とはいえ、彼女ホリーを称する言葉として、「ホンモノのニセもの」という言い回しが出てくるが、ニセモノとして生きる時間しかなかった女性のね本当の物語、というものがポッカリ空いている様を想像して、何とも知れない気分になる。

 そして、自身では気づかないながらも、実は、彼女が演技している、生まれもっての上流社会でのスター的なものよりも、ずっとずっとドラマチックな暮らしをしているのだということを観客は知ることになるが、そんなことをホリーは気づかない。ラストは、ハリウッドとしてのラストに落ち着かせるが、この後もドラマは決して終わっていないぐらいの問題は、残されていて、決してめでたしめてたしではないのだ。

 この、あまりにもシリアスで悲しい素材を、ブレイク・エドワーズならではの執拗なコミカル演出や、不必要に長いパーティ・シーンでのスラップスティックなどを入れ込みつつ、「おしゃれな」映画のフリをする。エドワーズでないとできないワザではあるだろう。

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2013年9月28日 (土)

キャリーの息子とでもいうべき『クロニクル』

『クロニクル』於・TOHOシネマズ日劇3

 男子版『キャリー』とはいえ、それも、この映画は、スティーヴン・キングの原作の方へのオマージュじゃないかと思う。なぜなら、地の文でなく、すべてが、どこかからの引用という体裁の小説に対する、(ほぼ)すべてが「神の視点ではなく、主人公たちが撮った映像」の引用であるからだ。
 とはいえ、先に余談的なことを書きますが、これが、スティーヴン・キングの息子でも、ブライアン・デ・パルマの息子でもなく、ジョン・ランディスの息子(マックス・ランディス)による脚本である、ということだが、明らかにキャリー世代を今の世代なりに継承したのだ、ということがわかる。
 そして、独創性を感じたのは、音響が遊びすぎなのだが、その遊びすぎで製作した音響をそのままエンドタイトルに持ってきたことだ。すなわち、タンジェリン・ドリームやクリフ・マルチネスもびっくりの、究極の無音階サウンド。ちょっと、この音響のサントラをアナログでほしくなったぐらい。
 そして、何より感心しまくったのは、「超能力によって宙に浮かせたビデオカメラが撮った映像」のアイデアだ。すなわち、映像のブレや動きが、直接登場人物の心の動きであることを暗喩じゃなくて、直接の表現として伝えられるし、映像そのものが中断してしまう、という演出を随所に自然に取り入れることができるのだ。そして、ちょっと実験したい編集なんかも、気兼ねなく実行にうつせる。

 映され、編集されている映像そのものの完成度、という束縛からは逃れられる(素人が取った驚愕映像をそのまま流している態、ということもあって)通常の神視点映画の完成度ではなく、アマチュアらしさを出す、演出の演技が必要となってくる。そこへもってきて、この映画なら、ごくごく自然に、特撮(およびCG)をはめこまなくてはいけない。いかにも、に絶対なってはいけない。という、モキュメンタリーならではの悩ましい点は出てくる。

 パンフレットは製作されていない模様。

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2013年9月25日 (水)

”ビザンチウム”を活かさないことから考えること『ビザンチウム』

『ビザンチウム』於・シネマメディアージュ(鑑賞9月22日)

  必ずしも、ヴァンパイア映画のお約束すべてを踏襲せず、「人の血を吸う」「老いない」「秘密を知られたら殺すしかない」の三点をポイントにした人間ドラマ。ホラーといっても、殺す側の悲しさを強調する、視点を替えて、あくまで愛の悲劇としてのファンタジーである。
 母娘ふたりの関係をめぐる今昔の物語の交錯は、イメージ重視で丹念に描かれる。ただ、ちょっと意外だったのは、タイトルにもなっている名前の元ホテルのロケーション、この舞台を使用して、もっとビジュアル的に見せ付ける場面がてっきりあるもの、そしてこの建物へ誘うきっかけとなる男とのドラマがあるものと思っていたが、これらは、あくまで通過点に過ぎず、現代に生きるバンパイア女性の物語といいつつ、彼女たちの心は、彼女たちの年齢がリアルだった時代にあるのだ。まあ、もちろん、そこから、彼女たちの時間だけがとまって、他の時間は流れているのだから当然だろう。とすると、この「現代描写の希薄感」は、彼女たちの心情を描写していて的確。
 エレノアが吸血する人間の選び方を始め、それまでにないほどに、自身の存在と人間のシステムとの違いを浮き彫りにしていると思う。

 クラシカルなファンタジーの、リアルな読み解きは、『ダークナイト』以降、自然に受け入れられるようになってきている。そのうちの新カテゴリー内に入るものだろう。温故知新は、物語の進化のアイデアとして、ひとつの方法だと思う。が、温故知新は、これまでのニール・ジョーダン映画すべてにいえることだと思うし、その上に、右に出るものはいないほどにロマンチストだな、ということもよくわかる。

 パンフレットは、ニール・ジョーダンのインタビューが興味深い。物語の練り上げの過程が書かれている。撮影のショーン・ホピットへの言及もあり、今後のホビット撮影作品の鑑賞のヒントにもなりそう。コラムは北小路隆志氏の監督論、小林真里氏のシアーシャ論、高橋諭治氏のヴァンパイア論。脚本のモイラ・バフィーニのインタビューも少しあり。

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2013年9月24日 (火)

実はありえないファンタジー感こそがロメール流『恋の秋』

『恋の秋』(於・神保町シアター)9月21日鑑賞。

   一見、ナチュラルに流れているように見えるエリック・ロメールの、恋愛こばなし系の作品は、実は、ものすごく精密に作られているからこそ得られる快感なのだろうな、と思う。
 それは、会話のテンポ、発声の抑揚の統一。そして、表情の統制。
 登場人物たちは、心情の大きな波を見せない。他の監督作品なら、ここで登場人物の誰かが、感情を爆発させるだろう、というような展開中も、静かにとおりすぎる。これは、ある意味、映画の中ではなく、現実でのリアルな反応に近い。ただ、登場人物たちに降り注ぐ事件や偶然が、現実とは切り離されているので、ここで映画的事象と日常的反応の化学反応がある、ということだろう。
 まるでローカル線の旅といいながら道中は見せない、かのように、次の事件までの経緯をすっとばす。それが、「時はたって」的なアクセントを入れるのが通常のところを、全く隣の部屋に移るだけのようにシーンチェンジするので、そこでおかしみがある。
 この中をすぱっと抜いたシーンチェンジこそ、ひょっとしたら、ロメール映画のファンタジーたるところではないかとも思う。本来は、時は経っているはずだから、その間の心の微妙な推移はあるはずなのだが、それがないのだ。本当に、隣の部屋に、今来たところのように、次のシーンに移るのだ。なので、地味にポップだが、これ、ひょっとして、登場人物たちが都度テレポーテーションし、タイムトラベルを行なっているかのようなのだ。

 ということをとりあえず考えつつ、ロメール映画は、いろいろな工作で、巧妙に、ありえないファンタジーになっている。そのありえなさこそを味わいたいから、一見SFでもなく、身近そうに見えるロメール・マジックを見るのである。

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2013年9月19日 (木)

語りかける「モノ」たち。『ハーメルン』

『ハーメルン』於・ユーロスペース(鑑賞9月15日)

  もし、モノを擬人化させられるのであれば、人間でなく、彼らが語り部となるだろう、というほどに「モノ」に想いを託している映画である。
 人形、時計仕掛けのオルゴール、コーヒー、折鶴、ピアノ、8ミリ映画、そしてタイムカプセル。そして、その構成で面白いのは、実際に登場するものもあれば、登場しないものもある。その「モノ」の存在が、物語のある部分の象徴として作用しているのだ。
 後半に指しかかかっての、西島氏扮する静かな主人公が、感涙する場面がある。この場面は、思わず、そうきたか、とひとり「おお」と感心してしまった。
 『夏の終り』同様、『ハーメルン』も、沈黙が多くを支配する作品だが、沈黙の理由が違う。前者は、沈黙のシーンをあえて選んでいるわけだが、『ハーメルン』は、おそらく、登場人物たちの生活のどこを切り取っても、同様の沈黙具合だろう。わかりあっているものの落ち着いた沈黙と、過ぎ去りし日を想い、過去の時間と心で対話しようとしている、そんな沈黙である。そして、今回の沈黙の方が、今までも表現されてきた形式であろうと想う。

 ラストは、この映画なりの『マグノリア』か『フィールド・オブ・ドリームス』か、といった感情の美しい昂揚といえばいいだろうか。多くの疑問は、解消されずに映画は終わるが、疑問することから生じた自身の心持の変化の方に重きをおきたい、という姿勢は、映画で語る「物語とは何か」的な根本をも自由にしようとするものであり、刺激的です。

 パンフレットは、スタッフ、キャストの詳しい経歴と、監督によるプロダクション・ノートのみ。第三者による原稿は載せていない。

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2013年9月18日 (水)

これぞモダンな侘びサビであることか『夏の終り』

『夏の終り』(於・有楽町スバル座)9月14日鑑賞

  精神状態によって、同じシーンでも聴こえる音と聴こえない音があって、例えば、この映画のラブシーンで、顕著に、音の強弱などによって、主人公の心情描写を自然とやってのけているね、ということを感じて、それは、少し前に読んだ『イングリッシュ・ペイシェント』における計算された音響設計を思い出させる。
 舞台の近くに川がある、というのもミソで、多くの歩くシーンなどの中で、薄いカーテンのように水の流れる音は聴こえ続けるのだが、これは絶えず、収まらずにかすかにともり続ける熱情のようなものである。熱情が爆発するシーンでは、大雨になるが、これもビジュアルではなく、声をも掻き消すほどの激しい"雨音"こそが重要なのである。
 
 例えば、小説であれば、緻密な描写を文章で起こしていく部分を、映画は、音響を駆使して、相当な描写をまとまったカットの中に入れることができる。この映画では、動きがかなり少なく、たたずんでいる、もしくは静かな動きが多い。登場人物たちがそういう動きしかしないのではなく、動きの少ない時間を選んで描いているようなもので、それは、具体的な事件ごとの描写ではなく、この登場人物たちの時間の「絵になる瞬間」だけを切り取った、という贅沢な「音響つき動画」なのである。しかも、そこに、説明を省いての時間軸シャッフルがある。着物のトーンや役者の演技で、彼らの人生のどのあたりの箇所なのかを理解させる、というかなり高度なテクニックに挑戦する。
 気づけば、役者選択にしても、ただ佇んだ図が「絵になる俳優」が選ばれている。動きやセリフによる演技への要求は最小限にとどめられていると思う。この、恋愛映画における、時間軸を組み替えることによって生み出されるドラマの濃厚さは、『トゥ・ザ・ワンダー』や『わたしはロランス』でも味わったが、同じドラマでも、コクが出る、というのはわかった。文法にも似ているか。
 僕は、君を殺した。
 よりも、
 僕は殺した、君を。
 君を、僕は殺した。
 の方が、コクが出る。
 
 詩は、行間にこそ、味があるか。いかにも演技の部分ではない部分、セリフは語らない箇所、そこにこそ、最大に豊潤な味わいが出るモダン和菓子みたいな映画とでもいいますか。
 パンフ。竹内紀子氏による原作・原作者論、野島孝一氏の映画論、監督・キャストのインタビュー、そして、なんとその地の物語ではないのだが、ロケ地として選ばれた洲本のロケ地マップ。 

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2013年9月17日 (火)

近過去のラブ・ストーリーは今への警告でもあるか『わたしはロランス』

『わたしはロランス』於・シネマカリテ(鑑賞9月8日)
 
 感覚として、そのメディアの個性的な使い方は、なんとなく会得しつつも、初期衝動として発生する、まぶしい何かが、まだ、この作品にはある。
天才といわれる人が作らないといけない作品は、上記のようなもので、決して老練なものであってはならない。よくよく見ると、ほころびは多くあるのかもしれないが、今、その作家(監督)でしか作れないものを作ってこそ、そのパワーに圧倒されて、ファンも納得するのである。
 ところで、ちょっと話は変わる。
 詳しくは、その精神的構成は違えど、要するに、男女の二面性を持つことをカミングアウトして生きる人々、はさまざまな表現に関する特権が与えられている気がする。美や繊細さと、緻密さ、豪快さといった端的にどちらかの性別の特徴的に語られる要素のいずれが組み合わさることも許される、その吹っ切れた自由さという特権はあるように思われるのだ。(ちなみに、これは主人公の表現を指しているのであって、監督およびこの作品全体を指すものではない)。
そして、自身の存在自体が社会問題となってしまうまだ今は、自己の存在というテーマの次に突き進むことができない、というもどかしさもある。だが、そこから抜け出そうとしている作品でもあり、それは「危機を迎えたカップルの救済」という、より普遍的なテーマにもっていこうとする軽やかさが、ここにはある。心理のあやの微妙な物語を、鮮やかな色彩と、音楽、音響、映像としての遊びなど、さまざまな手法でポップな抒情詩としてつづっていく。

 ただし、この物語の重要なことがある。この物語が86年?から96年の10年強の物語、すなわち、製作時からは15年前の物語であり、近過去であり、今の物語ではないということである。これは、では、現在はどうなのか、という問いを自動的に投げかけてくる。さすがに今は違うよね、なのか、今も変わらないよね(ため息)なのか。

 パンフレットは、佐藤久理子氏と北小路隆志氏の、それぞれの監督論、そして斎藤綾子氏のストーリーからの論。グザヴィエ・ドランとメルヴィル・ピポーへのインタビューが要になっているが、どうも、ドランのインタビュー原稿が、まるで洋楽ロック誌でのアーティストの発言のように訳されていて、ひじょうに気になる。こうした方が、かっこいい(と思っている)のかなぁ。

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2013年9月14日 (土)

映画の構成要素が楽器となってセッションする『オン・ザ・ロード』

『オン・ザ・ロード』於TOHOシネマズ・シャンテ(鑑賞9月7日)

  物語の語り手が魅了された男を中心とした物語であるが、そこそこ、いい男であるが、なぜ、彼に魅了されているのかを観客に説得するということには興味がなくて、どちらかというと、そいうことも含めて冷ややかに見つめている映画なのだろうか。その、中心なる男ディーンの憎めない怠惰ぶりは、彼が新たなる怠惰な行為に踏み出すところと、彼を主人公が許している場面まで一気に省略することで、ちょっとコメディ的味わいともいえるが、本来、この状況をじっくり描くと、青山真治バリの張り詰めた空間が支配する、体力の要る人間ドラマになろうかと思われ(その感じでソクーロフかダルデンヌ兄弟あたりに再映画化してみてほしかったりもするかも)、それは、今回の映画化の意図とは異なるのだろう。
リズムを作り出すための細かい省略は多用される。そこに、これは他の映画でももっとあってもよいと思うのだが、メロディを歌ったときの権利処理が難しいからか、なかなか見ることのない、ついついメロディで歌ってしまう部部を多く取り入れたセリフである。ワード・ジャズという単語を思い出した。(RHINOがJACK KEROUAC音源をCD化した際のレーベル名はWORD BEAT)
  まさに、ジャズのノリの文章でつづられた作品なのであり、その「ジャズ」感をそのまま映画として具体化しようとしたのだろう。
  サンタオラーヤのメロディよりビート重視のサウンドも、その感覚に沿った結果。この感じだと、メロディを押し出すと、そっちに流されかねないので。そうすると、編集、撮影、役者の動き、セリフ回し、SE、そして音楽、それらはひとつのそれぞれの楽器となって、セッションしている、まさにその感覚の映画である。

  パンフレット。これは、予備知識大量に必要な映画でもある。原稿は、原作の翻訳者の青山南氏、写真家の操上和美氏、そして評論家の大場正明氏。そして何より興味深いサレスのインタビューだが、なんとサンタオラーヤは、映像をみずに自らのイメージだけで音を作ったのか。それにしては、合いすぎだ。さすがですねぇ。

  ところで、サレスのフィルモグラフィーで『アルゼンチン・タンゴ』のプロデュースは、意味あると思うのだが、パンフには書かれていない。

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2013年9月11日 (水)

人々の優しさとは無関係なところで戦争は行われる『誓いの休暇』

『誓いの休暇』於・シネマヴェーラ渋谷9月1日鑑賞

 この物語は、組み立てとしては、『ニューヨーク1997』とも同類の、タイムリミットものなわけですが、その中で、さまざまな戦争の悲劇を人生の縮図のように相次いで体験していく、というオムニバス的な構造。今風にいえば、ゲーミフィケーション的で、人生ゲーム的な「誓いの休暇」ゲームもつくることはできるだろう。
 限られた時間の中で、自分は何を達成できるか。もちろん、故郷に帰ることが第一目的だが、その間に、べつのさまざまな意味が発生してくる。
 会いたい人に会う、という行為は、それこそ、テレポーテーション技術が発生しない限り、もしくは交通手段がより速く安く日常的にならない限り、通信手段と違って、代替方法があるわけではない。ここで語られる切実な思いは、現在も古くなることなく、共有することができる。
 
 そして、このドラマで気づいておきたいのが、これは戦争映画であるはずなのに、映画本編の中で「争いあっている人々」など、登場しない、ということだ。庶民の日常は、こうやって助け合って仲良く生きているが、国の事情で戦争が始まると、自分たち個人個人の優しさとは全く別次元のところで、悲惨な状況が展開してしまうことになる。
 若き兵士の、その後の運命は、観客はみな知っている。だが、そんなことはつゆ知らず、物語の中の若い兵士は、さまざまな出来事や出会う人々に心地よい感動を覚えたり、少し、心を痛めたりしているのだ。

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2013年9月 9日 (月)

ロシア版「霧の童話」というよりロマンス重視『スタフ王の野蛮な狩り』

『スタフ王の野蛮な狩り』於・シネマヴェーラ渋谷(鑑賞9月1日)

  コスプレ劇であるということを別にして、どこか遠くで行なわれているかのような物語との距離。すべてを様式美重視で行なっているがために、いびつなリズムがうまれるのだろう。
  この映画の、多くのファンタジーと一線を画すのが、前半の恐ろしい幻想談に謎解きが存在するということだ。解明されないまま、というか、現実とは異なる世界を持った物語の中で説明されていけば、それはまさしく『スリーピー・ホロウ』で、ティム・バートンの世界となるが、そうではなく、「怪奇大作戦」の「霧の童話」のロシア版とでもいいたい世界に落ち着く。
  そこにユニークな感情が生まれるのは、あまりにも悲しくスウィートなメロディの劇伴である。フランシス・レイを思わせるメロディのうねりが、ホラーというよりも、恋愛物語が実はメインであることを思い出せるとでもいうのだろうか。例えば、多くのホラーで使われるメロディの美しさとは、ちょっと違う、メロドラマ大作側のメロディなのである。

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2013年9月 6日 (金)

作品を語らず醜聞にのみ関心がある状況と酷似する。写真そのものの内容をもっと知りたい『メキシカン・スーツケース』

『メキシカン・スーツケース』於・シネマカリテ(鑑賞8月31日) 

  冷静に、思い返せば、ひとつ、気づくことがある。それは「スーツケースに入っていたネガの写真そのものの詳細がわからない」ことである。そして、そうであるがゆえに、写真ファンでなくとも、その史実のスリリングさを味わうことができる。
 伝説のみだったスーツケースが本当に発見され、そのスーツケースをめぐる、初めの状況と、それを保管していた人間から、世界の目前に発掘される様、そして、その行為の是非まで。
 この事象に携わった人物たちの人間像を考察し、この事件そのものから、スペイン内戦の状況全体へと目配せしていく。

 ここで意外なのが、ロバート・キャパという人間そのものはやはり謎のベールになかば包まれた状態のままで、かつ、このスーツケースの中の写真は、分析中だから、ということもあるかもしれないが、ほとんど語られない。

 ここで、思いつくのが、今回のこの作品に限らず、めぐる事件やスキャンダルにばかり興味が湧き、本人、作品自身について語られることがほとんどない、メディアによる「紹介」の状況だ。

 例えば、受賞歴、観客動員数、観客満足度、などを列挙されても、その映画がどんな作品なのか、まったくわからない。それは音楽についても同じで、「音が聴こえてこないコメント」は、世の中に多い。これに似ているのじゃないか、と。
 濃い写真ファンのための作品だろう、という推測ができる。写真の内容は、説明不要なのだ。もちろん、極限まで接近して撮影したスタイルの写真だ、ということは説明されるが、それはキャパのスタイルについての話で、このスーツケースの中の写真の内容に直接的につながらない。作家の文体の話のみに終わっているようなものなのだ。

 もちろん、スーツケースをめぐる数奇な歴史はそれそりものも十分刺激的なので、ちょっといじわるな物言いではあるんですけれども。

 パンフレットは、トリーシャ・ジフ監督のメッセージ、マグナム・フォト東京支社の小川潤子氏、スペイン現代史を専門とする川成 洋氏、NHK通訳の比嘉セツ氏による各原稿は、同じ史実を、それぞれの専門を中心にそれぞれの視点で解説し、興味深い。厚みそのものは、一見心許ないが、かなり凝縮して内容の濃い冊子。

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2013年9月 5日 (木)

思い出がドラマの先にある『ジンジャーの朝』

『ジンジャーの朝』
於・シアター・イメージフォーラム(8月31日鑑賞)

 これも、唐突に終わってしまい、ある種、途方に暮れる物語である。衝撃の余韻が癒えることなく、このままではいけない感、旅立たざるをえない状況が提示されて終わる。
 この映画の冒頭数分が、まるで、ラストシーン数分のような幻想感を持って、甘い感覚にひきずられて、思い出のショットをつなぐかのように美しさを強調して進み、そこから、スピードを落として、ドラマは形作られていくが、この、冒頭の幻想性は、本来ならば、ラストに甘酸っぱい思い出として、つづりたいのだが、そういう気分にはなるわけがない苦々しさが支配するため、どこかに青春の幻想を持っていきたくて、冒頭にした、そんな感じか。
 冒頭の何気ない美しさによって、ジンジャーは、ローザを許してるのだろう、とは推測できる。思い出したくない記憶ならば、前半をこのようには描かないだろう、と。
 そして、気になったのは、青春の不安の隙間に、核反対運動に参加しようと積極的になる描写で、この過程をもう少し克明に描いて、大作にしても見ごたえがあるけれど、タイトルが示すように、この映画の描かんとするところは、そこではないのだよな、と。
 しかし、90分ものの青春映画にしては、重厚さを感じてしまって、もっと長くなるところを、相当きったのじゃないかとも思った。
 音楽は、当時の、特にイージー寄りのジャズをスコア的に使用して心地よい。

 パンフ?は、スタッフ・キャスト・プロフィール、イントロダクション、監督へのインタビューなど。コラムはなし。価格記載ないし、プレスの流用パンフ?

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2013年9月 4日 (水)

日本には、すでに当事者映画は多く存在してしまっているのだ 『トラブゾン狂騒曲』

『トラブゾン狂騒曲』(於・シアター・イメージフォーラム)
鑑賞8月25日

  今、日本で、この真面目なドキュメンタリーが公開されるのは、ファティ・アキン作品は、常にチェックし続けている配給会社がある、という話ではない。映画が始まって、しばらくして、この村の状況が、日本のある状況とあまりにも似ている、ということが最重要なのだろう。
 映画は『阿賀に生きる』のように人間味あふれた人々に興味を移すと言うことはない。あくまでも、現状を凝視しつつの、過去、そして未来への疑問は提示し続けている状態での記録である。
 トルコでも過去に、さまざまな社会問題を考えるドキュメンタリーは存在したに違いない。が、日本で、過去から現在までの数々の汚染問題、地方・国対市民の問題は、そして2011年以後は、さらに考えなければならない深刻な問題を抱えて、現在に至るのだ。日本には、当事者としてのドキュメンタリーが、すでに多数存在してしまっているのだ。
 この映画での興味は、さらには、映画人ミーツ社会問題を直接切り取った場合、ということ。アキンは、もちろん今までに問うた作品もそのほとんどは社会問題と密接に関係している。が、もっと直接的に、ということだろう。
 日本では、真っ先に思い浮かぶのは、中田秀夫監督が撮ったドキュメント。しかし、例えば、そういえば、今の邦画界には、山本薩夫監督も、熊井啓監督もいない。どうしてだ。この題材は、観客が入らないからか。そうだとしても、近年、メジャー系で社会派大作映画というものは、本当に存在しなくなった。園子温『希望の国』か。あれも、現状の冷静な観察であり、そこから踏み込むことはしていない。できないのかもしれない。そうか。できないのか。

 パンフレットはアキン監督へのインタビューで6ページ。他に梶山正三(ゴミ弁連会長)と映画ジャーナリスト金原由佳氏の原稿。

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2013年9月 3日 (火)

美しさの前に動画でなくなる映画『楽園からの旅人』

『楽園からの旅人』
於・岩波ホール(鑑賞8月25日)

 この映画は、同じく岩波ホールで春に上映されていた『海と大陸』と対を成すものである。すなわち、イタリア映画における、難民(不法入国者)との対峙の物語それぞれ、ということで、『海と大陸』は、そこに世代のうつろいと少年の成長をダブらせて、動きのあるドラマとしたが、こちらは、退いていく司祭の姿と合わせて、静の状態で、動までも表そうという、舞台劇的展開である。
 宗教のまさに直下の中の状況で、難民として登場し、教会の中に暮らし始める、黒い肌をもった美しい人間たち。直接的に語りかける社会的な悲劇とは異なる、その映像こそが見せる、悲劇の中の、絵画のようなシーンの数々は、悲しさではなく、心地よささえも感じ取る。それは不謹慎とかじゃなくて、そういうことでは計り知れない美しさ、でもいうのだろうか。力になる、助けになるどころか、彼らの圧倒的なオーラにただただひれふすばかり、という状態になっているようである。
 ムービング・ピクチャーを撮るつもりが、被写体のあまりの美しさに、画面を動かすことさえ忘れてしまう巨匠たち、それは『パッション』のゴダールや『ノスタルジア』のタルコフスキーや『美しき諍い女』のリヴェットとよく似た動機をもっているだろうか。ただ、その美に酔いしれる感覚は、観客にも伝染するので、それが決してマイナス材料な訳ではない。

 パンフレット。作家・目黒条氏の、岩波の過去作を振り返りながら、本作の感想へ。原稿は、佐藤忠男氏、立教大学・新約聖書学の教授の佐藤研氏、小沼純一氏、監督の短いインタビューとシナリオ採録。もっとも、本作のさまざまな表現を噛み砕いてくれるのは、佐藤研教授の論だろう。

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2013年9月 2日 (月)

映画完成後の、現実の厳しい展開コミで。『南の島の大統領』

『南の島の大統領』於・K's CINEMA(鑑賞8月25日)

 この長編ドキュメンタリーの特徴といえば、まず「モルジブの美しい風景を見せる映像は、ほぼ皆無」でかつ意外なのが「マレ他モルジブの町並みは見せない」ことだ。唯一、数回、首都機能のある島と思われる島の空撮があるが、これが、観光地のモルジブの風景とは別に、「ここはモルジブの事務所」とでも言わんばかりに、機能的な建造物が密集している光景を見る。こちらに、インパクトをそそられたりする。
あくまで、これはナシードという男の、政治家としての姿を見せるドキュメンタリーで、クライマックスにCOP15が来るように構成されている。
地球温暖化の問題そのものは、自分は勉強不足で、それについての興味というより、「モルジブすなわち観光国の政治家」とはどんな人間なのか、のドラマを見たかった興味がいちばん。そして、他の国とは違い、この国固有の悲しい歴史が明かされるわけだが、そこで、他国、観光する側の人間が感じ入るのは、「自分たちが訪ねている島は、どんな歴史があるのか」ということなのだろう。そこから、世界の現状を知るきっかけとする。
小国の歴史を調べることは、決して、その国だけの歴史ではすまないがために、国際史の、ある面に出会うことができる。

それより、驚くのは、このナシード氏は、2012年に大統領の座を退いていた、ということだ。この映画自体は、2011年に完成しているので、もっと彼を盛り立てよう、的な意味合いがあったに違いない。が、翌年、予期せぬ状況となり、今年の9月に選挙があるという。その「返り咲くかもしれない(返り咲いてほしい)」というタイミングゆえの日本公開なのだろう。「応援しようにも、その座に今、彼はいない」という状況からは脱せるかも知れないタイミングということだ。

パンフレットは存在する。青山学院大学の小島教授が、COP15を中心に、概況を解説、シナモンハウス代表取締役の阪本時彦氏がモルジブに絞っての概論を、土井敏邦氏と海南友子氏が映画の、彼の描き方を中心に論ずる。

映画として観るには、現実問題すぎて、彼を題材に、実録映画が撮られれば、もう少し冷静に見ることができるのかもしれない。

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2013年9月 1日 (日)

観たい場面はカットしないこと。物語に関係なくとも。『オルエットの方へ』

『オルエットの方へ』
於・オーディトリウム渋谷(鑑賞8月24日)

 映画には、いろいろある、という視野を広げさせてくれる作品。長尺の作品と知りながら、本腰据えて、女の子三人のバカンスの日々を一日単位に、細やかな日記の如く、写して行くのだな、ということがわかった時点で、見方を変える。完全に、彼女たちと戯れる心持である。
 が、ここで、楽しく戯れていられないのが、女の子のうちのひとりを追っかけてやってきた上司の存在である。この、上司と女の子たちのぎこちないやり取りが、何とも心地よくなくて、逆にそれがリアルだったりする。早く理由つけて、去ってくれないかな、と、完全に感情移入して、見入ってしまっていたりする。これが不思議なのは、上司側に感情移入してもよいはずが、そうはならないのが、見る側の勝手である。しかし、優劣がはっきりしている場合、劣の方を応援したくなるのが常だと思うのだが、そうはならない。ただ単に、画面が女の子だけになってほしい、というどちらに感情移入、という視点ではない観客としてのエゴなのかな。
 ある夜の出来事から、ナチュラルなスケッチから大きく外れたドラマチックな展開となるが、そこで、少しずつドラマは進行しており、ゆるやかな起承転結を形成していたのだということを確認する。
 ラストの、それはそれでね、という長尺物語のオチとしてはかわいいシメも、この物語が長尺である意味を浮き立たせる。
 長尺の意味は、物語が転がる瞬間、というより、前半は、観たい場面をカットしない、そのことにつきていると思う。観たい場面、それは、女の子たちが見せる様々な仕草であり、光景とのコントラストであり、そういうことである。

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プロローグ3ページのみの映画化、そんな異色かつ独特の世界『HOMESICK』

『HOMESICK』於・オーディトリウム渋谷 鑑賞8月24日。

 廣原監督の作品は、いずれも「ひとりの人間の、状況」の映画であって、物語、ではあるのだけれども、物語、というところにはいない気がする。
 一見、『HOMESICK』も「あらすじ」は200字もあれば、書けてしまうぐらいのシンプル?なもののように見えるが、それをミリ単位で細かく刻んで引き伸ばして見せる、というか、そのために、今までの映画表現ではカットされていたはずの時間が残っている。が、この「カットしていない、一見、物語は進展していない数分」は、見る者に、主人公の呼吸と同期させる間を与えている、とでもいうのだろうか、「一見、何も描いていないようで、緻密な描写が気づかないレベルで行なわれている」のではなくて、本当に、そのままの長さを提示するのだけれども、そこでは、リアルな時間経過こそが、この主人公の心情を理解させるために必要なのだ、ということを直感で気づいている、そんな感じなのだ。
 そして、廣原長編作品の常で、これも映画の時間内での主人公の他者との接点が一見少ない。が、今回は「子供たち」との接点がある。
 これは、どうも、自分の勝手な想像の可能性高そうなのだが、この「子供たち」の存在がファンタジー性に満ちているな、と。それは唐突に、自分が夢の世界に迷い込んだようにやってきて、それは、過去の自由研究の工作の再現であったり、かつて自分が住んでいた団地に住む男の子との少し深い交流であったり、と実は「過去の自分」という空想と戯れているのではないか、と思えてくる。いわば、子供たちは『ファイトクラブ』におけるブラピの位置にあるのだ。
 奥田嬢がヒロインっぽくキャスティングされつつも、自身のパロディのようなおなじみのキャラ(それゆえのオファーだろうが)そのままで事務的に接するのみで、接点がそこだけで終了するのも、今までの映画ではありえないことだ。
 奥田嬢が、主人公が立ち退いた後に見つける写真で、いろんなものに、少し血が通う感じがする。あの一枚がなければ、そうとういろんなものが回収されずに悲惨な物語の途中、というだけで終わってしまう。
 新たな一歩を踏み出す青年を描いた物語の、プロローグ3ページのみの映画化。そんな感覚の、あまりにも個性的な作品である。

 そんなわけで、次作は原作ものを準備中、とのことですが、「プロローグのみの映画化」とか、してみてほしいなぁ。

 パンフレット。博報堂の原田曜平氏によるさとり世代論、廣原監督のインタビュー、川口敦子氏が、過去の映画史上の作品を引用しての映画論、監督とトクマルシューゴ氏の対談、相田冬二氏の、詩のような印象論。・・・やはり、監督のインタビューに勝るものはない。
 黒沢清、青山真治監督あたりとの対談とかを読んでみたかったが、それは次作のパンフかな。

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