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2013年9月 4日 (水)

日本には、すでに当事者映画は多く存在してしまっているのだ 『トラブゾン狂騒曲』

『トラブゾン狂騒曲』(於・シアター・イメージフォーラム)
鑑賞8月25日

  今、日本で、この真面目なドキュメンタリーが公開されるのは、ファティ・アキン作品は、常にチェックし続けている配給会社がある、という話ではない。映画が始まって、しばらくして、この村の状況が、日本のある状況とあまりにも似ている、ということが最重要なのだろう。
 映画は『阿賀に生きる』のように人間味あふれた人々に興味を移すと言うことはない。あくまでも、現状を凝視しつつの、過去、そして未来への疑問は提示し続けている状態での記録である。
 トルコでも過去に、さまざまな社会問題を考えるドキュメンタリーは存在したに違いない。が、日本で、過去から現在までの数々の汚染問題、地方・国対市民の問題は、そして2011年以後は、さらに考えなければならない深刻な問題を抱えて、現在に至るのだ。日本には、当事者としてのドキュメンタリーが、すでに多数存在してしまっているのだ。
 この映画での興味は、さらには、映画人ミーツ社会問題を直接切り取った場合、ということ。アキンは、もちろん今までに問うた作品もそのほとんどは社会問題と密接に関係している。が、もっと直接的に、ということだろう。
 日本では、真っ先に思い浮かぶのは、中田秀夫監督が撮ったドキュメント。しかし、例えば、そういえば、今の邦画界には、山本薩夫監督も、熊井啓監督もいない。どうしてだ。この題材は、観客が入らないからか。そうだとしても、近年、メジャー系で社会派大作映画というものは、本当に存在しなくなった。園子温『希望の国』か。あれも、現状の冷静な観察であり、そこから踏み込むことはしていない。できないのかもしれない。そうか。できないのか。

 パンフレットはアキン監督へのインタビューで6ページ。他に梶山正三(ゴミ弁連会長)と映画ジャーナリスト金原由佳氏の原稿。

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