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2013年9月17日 (火)

近過去のラブ・ストーリーは今への警告でもあるか『わたしはロランス』

『わたしはロランス』於・シネマカリテ(鑑賞9月8日)
 
 感覚として、そのメディアの個性的な使い方は、なんとなく会得しつつも、初期衝動として発生する、まぶしい何かが、まだ、この作品にはある。
天才といわれる人が作らないといけない作品は、上記のようなもので、決して老練なものであってはならない。よくよく見ると、ほころびは多くあるのかもしれないが、今、その作家(監督)でしか作れないものを作ってこそ、そのパワーに圧倒されて、ファンも納得するのである。
 ところで、ちょっと話は変わる。
 詳しくは、その精神的構成は違えど、要するに、男女の二面性を持つことをカミングアウトして生きる人々、はさまざまな表現に関する特権が与えられている気がする。美や繊細さと、緻密さ、豪快さといった端的にどちらかの性別の特徴的に語られる要素のいずれが組み合わさることも許される、その吹っ切れた自由さという特権はあるように思われるのだ。(ちなみに、これは主人公の表現を指しているのであって、監督およびこの作品全体を指すものではない)。
そして、自身の存在自体が社会問題となってしまうまだ今は、自己の存在というテーマの次に突き進むことができない、というもどかしさもある。だが、そこから抜け出そうとしている作品でもあり、それは「危機を迎えたカップルの救済」という、より普遍的なテーマにもっていこうとする軽やかさが、ここにはある。心理のあやの微妙な物語を、鮮やかな色彩と、音楽、音響、映像としての遊びなど、さまざまな手法でポップな抒情詩としてつづっていく。

 ただし、この物語の重要なことがある。この物語が86年?から96年の10年強の物語、すなわち、製作時からは15年前の物語であり、近過去であり、今の物語ではないということである。これは、では、現在はどうなのか、という問いを自動的に投げかけてくる。さすがに今は違うよね、なのか、今も変わらないよね(ため息)なのか。

 パンフレットは、佐藤久理子氏と北小路隆志氏の、それぞれの監督論、そして斎藤綾子氏のストーリーからの論。グザヴィエ・ドランとメルヴィル・ピポーへのインタビューが要になっているが、どうも、ドランのインタビュー原稿が、まるで洋楽ロック誌でのアーティストの発言のように訳されていて、ひじょうに気になる。こうした方が、かっこいい(と思っている)のかなぁ。

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