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2013年10月27日 (日)

ボイル映画が描く素材としては正統派と思う『トランス』

『トランス』於・シネマカリテ

 本来、先鋭的な作品なんだろうけれど、ダニー・ボイルのサイコ・サスペンスといえば、展開や手法も、ほほえましく見てしまう。そんな手法を使うとは、というストーリーを奇抜にユニークに見せてきたボイルだから、ようやく、ある意味王道?なジャンルを作ったな、という心持がしている。
 序盤の展開がすでに刺激的でありながら、ところがどっこい、これは序章だよ、という感じのメインタイトルが、かっこつけていて、うれしい。
 この作品で、ことに、ユニークになったのは、スコアだろうと思う。この、スコア史上最強と思える、重低音の聞き具合! これは、爆音映画祭常連必至かと思われるサウンド。つまり、ある意味、立ってしまっていて、見ようによっては、ちょっと邪魔とも思えるのだが、数ある「どれが現実で、どれが妄想かわからなくなる」系サスペンスの中で、特徴づけられるきっかけのひとつとしてスコアはあるだろう。
 ロザリオ・ドーソンの役どころは、ちょっとジャッキー・ブラウンを思わせる。物語の語り口も似ていると思う。とすると、見ている観客のリアルタイムは序盤だが、劇中物語は、序盤では決してなかったのだ、ということで、むしろ、まるでドラマ・シリーズの最終回を見ている思いがしてくる。サスペンスやミステリーは全てにおいて、そうなのだろうけれども。
 ところで、ボイルの作品は、いずれも、現実とは異なる、心の中の世界と融合する作品が多く、ヤクとかランナーズ・ハイとかではなく、今回は催眠ときたか。この部分も、ようやく、ある意味正統な、ここへ来たか、という感じである。

パンフレット。FOXサーチライト・マガジン、とあり、そのVOL1。である。
ダニー・ボイルのインタビューは、彼の映画哲学がしっかり読める。フィルモグラフィーも詳しい。主役3人のインタビューのあと、うなったのはこの映画の重要な部分、「絵画」についての解説。スペイン美術史家の大高保二郎氏の記名原稿も。宇野維正氏によるサントラ解説、スタッフ・インタビュー、映画論は、映像ディレクターの関和亮氏、映画評論家の大場正明氏、そして、「FOXサーチライト」の方向性などを10ページ。編集は角川メディアハウス映画メディア部。

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2013年10月26日 (土)

ケシシュドラマの転がし方の快楽を考える『クスクス粒の秘密』

『クスクス粒の秘密』(於・アンスティテュテュ・フランセ東京)鑑賞10月20日

 人は死なないがサスペンス、犯罪は起きないがサスペンス、という作品があってもいいじゃないか、とは常日頃から思ってはいるが、まさか、この作品がそういう展開になるとは思わなかった。
 『身をかわして』もそうだが、作品全体を見終わると、どこがクライマックスだったのかがわかってくるのだが、そもそもが、そうそう見慣れているパターンのドラマではないので、余計、ドラマの展開そのものがスリリングではあることだし、かつ、日本のドラマとは違って、心理描写を緻密にした状況において、先が読めないスリリングさなのであって、次から次へと予期せぬ事件がおきるわけではない。
 ふと思ったのは、この二作品で考えれば、日本で言えばドラマの破天荒さじゃなくて、創作落語であったり、作りこんだコントであったり、の「日常レベル、もしくは制作費はかけなくていい中での、心地よいドラマの転がし方」が近いのではないかと思う。
 ある意味痛快だったのは、『クスクス』が、思いっきり、食事の映画であるのに、料理の描写については、かなりそっけない、ということだ。そして、主人公になるはずの「クスクス」については、もういうまでもない状況なので、ある意味いやらしい邦画の状況で、もしこの企画をもっていったら、絶対通らないだろう、という大きな皮肉がある。それは、観客の大方が想像するクライマックスであるはずのシーンは訪れないことにある。その部分もあってか、料理に冷たいのかもしれない。調理シーンを執拗に撮った『歩いても歩いても』を逆に思い出すのだが、それはそれで。

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2013年10月20日 (日)

ひたすら女の子たちのいがみ合い?に興味が行く・その1 『身をかわして』

『身をかわして』於・アンスティテュ・フランセ東京
(地中海映画祭・アブデラティフ・ケシシュ特集)

 ケシシュ作品3本『身をかわして』『クスクス粒の秘密』『黒いヴィーナス』を見て、特に前者2本で感じたのが、「とにかく過程の映画である」そして「女性たち同士の人間関係に(のみ?)興味のある人であるんじゃないか、ということだ。
 『身をかわして』は、構成は、まるでエリック・ロメールであるが、学生の男女の物語で、物語を転がす重要な役割に男側があったりするのだが、映画の興味は、ひたすら「この状況での彼女たちの心理状況は、反応はどうか」である。主役は3人かもしれないが、アンサンブルの心理劇で見せ、かつ、実際と練習している演劇の二重構造である。この映画内演劇も、男女の恋愛よりも、女二人の立場逆転に興味が行くものなので、それが実際の関係にも呼応する『Wの悲劇』的なものである。
 『黒いヴィーナス』は、史実を基にした、幾年もの時間を描くものだから、さまざまな制約があるようで、『身をかわして』と『クスクス粒の秘密』にこそ、ケシシュ映画のエッセンスを楽しめる部分が多いと思う。
 『身をかわして』は、ラスト直前の発表のシーンで、ちょっとひょっとしたら難解な箇所かも、と思った部分があったが、気のせいかも。

 ケシシュ映画の味のひとつが、『身をかわして』『クスクス粒の秘密』ともに「終わり方」だな、と思った。映画内の物語は「いったい、どう収拾つけるんだ?」という展開になるが、ともに「おお、ここで終わるのか」という終わり方。ともに、観客は希望7悲観3ぐらいの余韻で終われる。特に『クスクス~』の終わり方は絶品だ。特に『クスクス粒の秘密』の終わり方は絶品。人間ドラマで、この終わり方する物語は、見たことなかったかも。サスペンスやミステリーではあったような気がするが、確かに『クスクス粒の秘密』は、別に犯罪は起こらないけれど、語り口はサスペンス・ミステリーなんですよね。

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2013年10月19日 (土)

映像で見る「副音声」の発想か。『リヴィジョン~検証~』

『リヴィジョン~検証~』
(鑑賞10月11日 山形市中央公民館6Fホール/山形国際ドキュメンタリー映画祭2013)

 今は、慣れたといってもまだ慣れないのが、録音した自分の声を聴くことなのだが、『リヴィジョン~検証~』の興味は、そういったところに繋がる。そもそもの映画制作の出発点が、テーマありきか、この映画の構成手法ありきか、どちらかわからないのだが、「インタビューされた録音を、数分後に聴き返しているところの表情」に興味をもった視点は、おそらく初めてであり、しかも、多くのドキュメンタリーで、その現場はあったはずなのに、過去に記録されてこなかった現場である。
 この「手法の発見」に、自身もまだ慣れていないと思えるこの映画は、まだ「実験」にとどまっているとは思う。というのは、「聴き返した証言者の表情」が浮かび上がらせた事象を具体化させて発展させる、というところまではたどり着かせていないからだ。この映画における証言者たちのほとんどは、まだ「自身の証言している声そのものに緊張している」状況から自由になることはない。
 ここで、思うのは、すべてのドキュメンタリーにいえることだが、もちろん、映画として成立させた部分が、取材した全てではなく、ほんの一握りでしかないわけだから、「映画を一歩進められたであろう素材」は実は存在するが、別の事情で、使用することができなかった、という部分があるのじゃないか、という妄想である。この「使用できなかった素材」については、エッセンスのみを残して、フィクションとして再構成するか、などの工夫を施すしか世に出す方法はなくなるが、この「手法の提示」は、これによつて、成されることになり、これが今後、どう発展させられていくか、が楽しみではある。
 妄想のひとつとして考えているのが、ラストのショットだ。ラストの墓地を歩きながら、後姿を追うシーンは、後姿つまり、表情をとらえることをしていない、ということ。そして、録音を聴くシーンではなく、証言そのものをしている箇所だ。この証言は、作品中にどうしても採用したかったが、表情を映すことがNGだった。その解決策として撮られたのではないか、ということだ。

 ザッツ・エンタテインメントじゃないが、映画諸作の「告白シーン」ばかりを集めたオムニバスとかあったら面白いだろうな、と思う。

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2013年10月14日 (月)

光が演出する空間(ドラマ)と、見知らぬ案内人『サンティアゴの扉』

『サンティアゴの扉』鑑賞10月11日。
山形市中央公民館6Fホール(山形国際ドキュメンタリー映画祭2013)

 これが見たかったがために、山形までやってきた、イグナシオ・アグエロ監督の新作『サンティアゴの扉』。今や、山形国際ドキュメンタリー映画祭はどんな映画を発掘・紹介したか、の最代表作として自分としては挙げたい伝説の名作『100人の子供たちが列車を待っている』を撮った監督である。アグエロの今までのフィルモグラフィーを確認すると、社会を見つめるものと、個人的な素材を作品にしたものがあり、特に近年は、自身を見つめる視点にまとまってきているようである。
 究極の個人的素材、すなわち自宅、そしてその部屋、部屋に飾られた古い写真などから、時空を越えたロマンティックなムードをかもし出す。あまりにも緩やかに映し出される画面を捉える光の動きが、ドラマを盛り上げ、もしくはまるで感動的なオーケストラ・メロディのように観客をエスコートする。
 そんな「自宅」で光たちが監督のようにさまざまな演出を施す幸福なノスタルジアと対極に、まるで、どこでもドアのように存在する家の扉。この扉をあけ、言葉を交わす見知らぬ他人は、予期せぬ旅への案内人の役目を果たす。自分では選べない、訪問先。(といいつつ、実際は、諸事情で作品に活かせない訪問者・訪問先もあったとは思うので、そこで、偶然性を解しながらも、作家性的なものは介在する。)絵の具を探す画家のようで、そこで描かれるのは、あくまで、画家の手によるものである。
 サンチアゴという都市の中でも、さまざまな生活を過ごしている人たちがいる。日常の仕事のように、物乞いを日課としていた人々の暮らしから、映画を勉強している学生まで。彼らを線でつなげるのではないが、ドキュメンタリー映画作家の個人的な理由で始まったアクションの中で、彼らの姿は偶然切り取られることになる。もともと、彼らが取材の対象であったわけではない。
 偶然性は、ドキュメンタリーを美しく、快楽を覚えさせる要素の重要なひとつだ。思ったのは、そうやって切り取ることになった彼らの人生を起点として、ドラマを作るルールを例えば課す事。フィクションが、ドキュメンタリーよりも快感性において劣るひとつに、この「偶然の機会」を排除されることはあると思う。
 偶然性、意外な展開を許したら、ものすごいドラマができるだろうと思う。だが、そんなフィクションを許す観客がある一定数に達するまでには、相当な時間と理由が必要なのだろうとは思う。

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2013年10月 6日 (日)

何を以って起承転結とするかによる『パッション』

『パッション』於・みゆき座

前半は、これは、今までのデ・パルマ・サスペンス・パターンと違う展開をするのか(策略合戦みたいな)と思ったが、そうにはならず、いつものデ・パルマ・パターンになっていく。
 何をもって「起承転結」とするのかは人それぞれだが、一見、起が異常に長い映画のようにも思えるし、見終わると、いつものデ・パルマとはわかるのだが、そのドラマ展開の配分の具合が、例えば『殺しのドレス』とは違うのだ、と思ったりする。
 あくまで、デ・パルマ・ワールドの住人としての、女性たちの心理を楽しむ作品であり、それがまた、架空だから許されるのだが、多分に「恐れ」を楽しんでいる、というのは、例えば、駐車場のシーンの異常なこだわりと、普通、そんなスコアにはしない美しいメロディを流させる。デ・パルマ映画の特徴のひとつは、ストーリーの核心に必ずしも、重要ではないが、絵的にぐぐっときそうなシチュエーションだと、異常に時間をとってねちっこくそのシーンを見せる、ということがある。
 まあ、そこをすでに監督流を知っていれば、ははーん、と思って付き合うわけだけれども、見慣れていない向きには、シーンの意味合いが謎めいたままで終わってしまうことになる。
 この映画は、結局、終盤に向って、得意技を駆使しすぎることによって、ある意味混沌としていくが、まあ、これは本気になって怒るものでもなく、苦笑してしまい、「まあ、デ・パルマじいさんときたら」と思うのみである。

 パンフ。これも、デ・パルマのインタビューにおおよその内容は、すべて語られている。コラムは大場正明氏の監督論、三留まゆみ氏と永野寿彦氏の対談。土台となった、アラン・コルノー作品について、もっと詳細がほしかった気もする。ピノ・ドナジオに関しては、デ・パルマのインタビューでも言及され、プロフィールもしっかり。すばらしい。

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2013年10月 5日 (土)

細部に作品への愛が込められる『ムード・インディゴ』

『ムード・インディゴ』於・シネマライズ

 すべての瞬間のすべてのモノたちは、いつも、僕の何かについて祝福してくれている(はずだ)という作品。ボリス・ヴィアンの有名な恋愛ファンタジーをベースに、基本のストーリーは、そこをはみ出ないが、ゴンドリー映画のいつもの「ボクがすべての中心で、すべてがボクが想像するとおりに見える」のかなりハッピー寄りの映像。
 タイピスト工場とも言えるシーンを中心に、これは、映画というより、デザイン動画だな、とは感じて、ボクの主観の映画のはずなのに、感情移入は多分要求していない現代っ子っぽいドライさというか、これがロック精神かな、というところを感じる。自虐的なのだろう。多分に自虐的なために、恥ずかしげもないハッピーな演出を自然に切り抜けて行く。
 自虐的でありながら、反骨心が根っこにあるので、違和感がなく、クールに感じる、このところがリチャード・レスター作品のはしゃぎながらも、焦点はハッキリしている感じと似て感じられるのか。
 映画の利点は、小説にすると、クドくなってしまう描写の反復などを、自然に持続させられることで、物語を考えるときに、細部のアイデアがありすぎる時は、映画にしてしまう方がてっとり速いな、と感じる。
 ラストは、世界がボクを祝福しなくなっていく。この祝福しなくなっていくサマの表現も、この監督ならではに許される方法だろう。ちょっと『ニーチェの馬』も思い出させるのだが。

 パンフレット。やはりゴンドリーへのインタビューが核心となる。コラムは野崎歓氏が原作側から。村上香住子氏は、各シーンの自分なりの説明、といったところか。そして、この種?の作品好例のコメント集。そして、音楽については、ポール・マッカートニーについてがほぼすべてでサントラ全像についての解説ではない。
 ゴンドリー映画は、音楽も毎回当然凝っているのだが、以外にも、日本盤まで出て、詳細を確認できたのは『エターナル・サンシャイン』のみなのが、勿体無いといえば、もったいない。

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