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2013年10月14日 (月)

光が演出する空間(ドラマ)と、見知らぬ案内人『サンティアゴの扉』

『サンティアゴの扉』鑑賞10月11日。
山形市中央公民館6Fホール(山形国際ドキュメンタリー映画祭2013)

 これが見たかったがために、山形までやってきた、イグナシオ・アグエロ監督の新作『サンティアゴの扉』。今や、山形国際ドキュメンタリー映画祭はどんな映画を発掘・紹介したか、の最代表作として自分としては挙げたい伝説の名作『100人の子供たちが列車を待っている』を撮った監督である。アグエロの今までのフィルモグラフィーを確認すると、社会を見つめるものと、個人的な素材を作品にしたものがあり、特に近年は、自身を見つめる視点にまとまってきているようである。
 究極の個人的素材、すなわち自宅、そしてその部屋、部屋に飾られた古い写真などから、時空を越えたロマンティックなムードをかもし出す。あまりにも緩やかに映し出される画面を捉える光の動きが、ドラマを盛り上げ、もしくはまるで感動的なオーケストラ・メロディのように観客をエスコートする。
 そんな「自宅」で光たちが監督のようにさまざまな演出を施す幸福なノスタルジアと対極に、まるで、どこでもドアのように存在する家の扉。この扉をあけ、言葉を交わす見知らぬ他人は、予期せぬ旅への案内人の役目を果たす。自分では選べない、訪問先。(といいつつ、実際は、諸事情で作品に活かせない訪問者・訪問先もあったとは思うので、そこで、偶然性を解しながらも、作家性的なものは介在する。)絵の具を探す画家のようで、そこで描かれるのは、あくまで、画家の手によるものである。
 サンチアゴという都市の中でも、さまざまな生活を過ごしている人たちがいる。日常の仕事のように、物乞いを日課としていた人々の暮らしから、映画を勉強している学生まで。彼らを線でつなげるのではないが、ドキュメンタリー映画作家の個人的な理由で始まったアクションの中で、彼らの姿は偶然切り取られることになる。もともと、彼らが取材の対象であったわけではない。
 偶然性は、ドキュメンタリーを美しく、快楽を覚えさせる要素の重要なひとつだ。思ったのは、そうやって切り取ることになった彼らの人生を起点として、ドラマを作るルールを例えば課す事。フィクションが、ドキュメンタリーよりも快感性において劣るひとつに、この「偶然の機会」を排除されることはあると思う。
 偶然性、意外な展開を許したら、ものすごいドラマができるだろうと思う。だが、そんなフィクションを許す観客がある一定数に達するまでには、相当な時間と理由が必要なのだろうとは思う。

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