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2013年11月24日 (日)

過去の80年代青春映画のテイストを修正しつつ懐かしみつつという感じ。 『ウォールフラワー』

『ウォールフラワー』於・TOHOシネマズ シャンテ

テレビシリーズでみせるべき物語を、超特急の時間数でみせた感じ。というのは、主人公のモノローグで、シーンとシーンの間に起こっていたことを説明して過ごしてしまう箇所が多く、そこが結構、面白そうな場面をもっていそうなのだ。そういったシーンも、しっかり書き込んで、3時間ぐらいの映画にしてしまえば、ラストのカタルシスも、より一層で、アカデミーにノミネートされても、納得の風格を持ちえると思うのだが、多分、そもそもがそういう出発点ではないのかな。
 監督・作者のスティーヴン・チョボスキーは70年生まれなので、80年代中ごろあたりからが、最も多感な時か。音楽スーパーバイザーのアレクサンドラ・パトサバスは68年生まれで、2年の違いがある。ザ・スミスとかデヴィッド・ボウイ、そしてデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズなど、『500日のサマー』といい、゜このあたりが好きな若者たちの物語、なら、見たいと思ってくれるだろうなんて思うかな”なんて思ってしまう。いずれも、後の時代になっても、支持されている楽曲・アーティストと思われるから。
 マイケル・ブルックのスコアと思しきアンビエントなスコアの箇所も、思ったよりも、かなり鳴っていたと思う。映画によっては、音楽なしSE、環境音のみにしてしまいそうな箇所にも、スコアを流していることで、ドラマやミュージカル側の仕事わしてきた人の表現方法、と解釈。
 日本が宣伝のために、持ち出してきているスクールカーストの感覚は、この映画にはない。人みな欠点という愛すべきポイントがある、という描き方である。前知識なしで見て、想像以上だったのが、文学、音楽をはじめとする固有名詞の重要さ。先生が主人公に課題図書として渡す書物には、それそのものがメッセージを表すものだし、かかる楽曲も、いずれもが、重要な意味を持ちそう。
 80年代の青春劇の面白さは、パソコンが生活の中心を占める直前の時代だからだろうかな、とは、今回も痛感。

 パンフ。
 コラムは音楽面について映画批評家の小林真里氏。スター論を映画評論家の杉谷伸子氏。文学論がないのが残念だが、引用文学と流れる音楽について、リストアップはされている。インタビューは、監督と、主役。

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2013年11月16日 (土)

子供を産ま(産め)なかった女性「たち」の物語『四十九日のレシピ』

『四十九日のレシピ』於・有楽町スバル座

 思ったのは、まさしく女性脚本家、女性監督でないと作れない映画だな、と感じた。そう感じさせるシチュエーションは、もう冒頭から表されるので、そういうつもりで見てください的なことがしっかりわかってすがすがしい。
 途中(前半)で、主要人物たちが亡き母が残したレシピをなぞらえようと、みんなで向き合っている姿は、まるで、呪いの書を前に、唱えてはいけない呪文を唱えようとしている若者たち、というホラーの構図を思わず思い出して、構図的にはそうだけれども、これは決して「唱えてはいけない呪文」ではないので、メタファーではない。まあ、裏読みすれば、あの「レシピ」を見たことで、その影響下に彼らの心理はおかれることになるといえばそうなんだけれども。
 「家族の誰もが知らなかった母の過去」をさかのぼろうとするくだりなどは、母の過去がミステリー化しているところがあり、かつ、途中で、主人公がトラウマ的にもっている記憶の伏線の回収をしたりする部分、父の現在に過去が介入してくる部分など、「ありがちな、喪失の回復物語」をサスペンス、ミステリー的な語り口を入れることで、照れを隠そうとしている。そこは「ハートウォーム・ドラマ」では決して終わらないものがある中で、でも携帯メールを主人公と夫の「都会者どうしの通信」に限っていたりするのは、時代性を感じさせるものは、可能な限り排除している、そんな感覚と受け取った。
 とにかく「女性映画」であることは間違いなく、出てくる女性たちには複雑なドラマを容易に想像できる箇所が随所にあるのだが、逆に言えば、男たちの深層心理はなかなかわからない。父に至っては「自分はわからなかった」ということがわかる、というオチまであるので、コミュニケーションに関しては不器用、というステレオタイプ?的なものを感じたりもする。
 さて、音楽は周防義和さんですが、「ここは入れないほうがいいでしょう」攻撃をしたのじゃないか的に、ここは音楽入るだろう的なところにも、とにかく、特に前半、音楽は入らない。とくに女性たちを中心にした、複雑な心理の読み取りを観客に味わって、という作り手のメッセージなのだろう、と思い、濃密な沈黙を楽しんだりする。

 パンフ。松浦弥太郎氏のコラム、川口敦子氏のタナダユキ論、タナダ監督へのロングインタビュー、プロダクション・ノート。キャストのプロフィールはもちろんだが、スタッフのフィルモグラフィーが詳細なのが嬉しい。

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2013年11月 3日 (日)

2013年に、1997年のこの映画を見て思うこと。 『アンダーグラウンド・オーケストラ』

『アンダーグラウンド・オーケストラ』於・下高井戸シネマ

 パリのストリート・ミュージシャンたちの演奏風景とインタビューを、複数の取材を交差させてまとめる。製作は97年で、山形国際は99年で上映。
 ところで、思い起こせば、99年といえば、最もCDが売れていた時代のピークである。比喩でなく、まさにその時期である。この頃といえば『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が公開され、この作品の大ヒットによって「ドキュメンタリーも商業映画になりうる」突破口が開かれた。99年に閉店した、日本にワールド・ミュージックなるジャンルを定着させた六本木WAVEの地下にあったシネ・ヴィヴァン六本木では、ドキュメンタリーをとりあげてはいたけれど、初期の『コヤニスカッティ』という広い意味でだとドキュメントといえる実験作品や、レイトで『想い出のサンジェルマン』などのまさしくアート・フィルムの流れとしてのドキュメンタリーの上映はあったが、現在のような社会の在りようを捉えるとでもいうか、の形の作品が上映されたのは92年の『阿賀に生きる』で、この作品も、ブエナ・ビスタに繋がる、硬派ドキュメントの「映像作品」としての興味の可能性を改めて問うた。
 つまりは、まだ、この頃はドキュメンタリーの商業上映は自然なものではなく、かつ、その反面、フランスを本拠地とする異国のミュージシャンたちのCDなどは、現在よりもはるかに容易に手に入っていた。来日も当時はしげくクアトロあたりでライブが行なわれていたと思う。

 そして、何より、2001年よりも、2011年よりも前の映画であり、これらの時代を通過すると、異国民事情への興味が、自身との共通性なしに考える余地はなくなってしまったのではないかと思う。もし、当人たちも、2001年や、イラク戦争などを通過した後だと、違うコメントを残す、もしくはコメントが採用されていないか、と思うのだ。

 たとえば、初期ケシシュの作品で描かれたフランスでの移民の姿は、本作のミュージシャンの姿に重なるところがあり、説得力を増す。それこそ、もし、今、シネ・ヴィヴァンがあれば、昼間に『ヴォルテールのせい』を上映してレイトで『アンダーグラウンド・オーケストラ』とくれば、よくわかっただろうが、いずれにせよ、移民のパリの姿は、まだまだ日本で理解の興味の入り口に立っているのかどうかが不明なところである。

 作品そのものに話を戻すが、監督が女性だからか、ミュージシャンのパフォーマンスシーンでも、聴衆としての女性や、ミュージシャンの家族として存在する女性の姿にこだわりがあったのがポイントか、と。パフォーマー本人をもちろん取上げるのだが、本作の興味は「彼らの魅力を暖かく受け止めている周囲の存在」にあると思われる。ラストは、スタッフにミュージシャンたちは挨拶して「仕事場」に向っていく。つまり、この映画のスタッフ自身も「彼らを暖かく見つめる周囲」となった、ということだ。

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自由で、決してシャイではない視線『女っ気なし』

『女っ気なし』於・ユーロスペース

  何気ない物語の何気ない映画のど真ん中。容姿から、女性に好かれそうに見えない男と、ある母娘との一バカンスの間の、物語といえるかどうかわからないぐらいにささやかなひととき。広い目で見れば、これもひとつの「驚愕のラスト!」なのかな、いわゆる。『父の秘密』が構図命な画面だったのと対照的に、見たいものを自由に見る感じは、ストレスがなく、開放される。見たいものを、いい意味での好奇心そのままに見つめる視点は「見られると集中できない」「それほどシャイにはみえない」「あなたはまっすぐに私の目を見ている」(以上、うろおぼえ)などのセリフで、これが、主人公がなんとなく好かれる理由なのだろう、とはわかる。  が、これも、いずれの場合にも通用するものではなく、あくまでこの映画のような土地と場合と、であった人間によるものだろうけれども。

  パンフは監督インタビュー(聞き手・川口敦子氏)と、槻舘南菜子氏の監督論。

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2013年11月 2日 (土)

アート映画のフォーマットでバイオレンスを語る『父の秘密』

『父の秘密』於・ユーロスペース

 アート・シネマの手法で、かつて多く語られてきたB級バイオレンスのプロットを解釈しなおした、と受け取った。いわゆるバイオレンスの箇所は、引いた固定カメラで、最大限省略できる動きを省略して、表現する。画面に現れているのは、静かで動きのない画面だが、みる観客の脳裏には、過激に荒々しいまでのアクションが再現されているかのよう。
 そして、またしても起承転結とは何か問題だが、この映画も、起承の途中あたりまでしか描かない不気味さのようなものを感じる。
 そして、引いて固定したカメラが多いゆえに、その画面の構図は完璧だ。何度も登場するクルマの後部から、車外の光景までを捉える構図は、かなりこだわっている模様で、そしてソファーの後ろから捉えて、ソファーに横たわっている人物が初め気づけずにいる映し方や、もっともかっこよかったのが、厨房の主人公の男の背に、背を向けた料理人ふたりの軽い会話風景を見る映し方。このあたりの、構図命的なものは、キアロスタミを思ったが、キアロスタミよりも、とにかく、カメラの動きが意識的にほとんどなく、カメラを動かさず、被写体というかバックがひたすら動く時間が多いのが印象的だ。

 パンフレット。監督と主演女優のインタビュー。そして、川口敦子氏と、なんと宮台真司氏のエッセイ。

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