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2013年12月31日 (火)

エレファントや桐島との類似ではなく、こういう表現がジャンル化してきているのだと思う。『消えたシモン・ヴェルネール』

『消えたシモン・ヴェルネール』
於・ユーロスペース

 フックとなる小さな事柄でバラバラになっているそれぞれの意識をピン止めする様は『エレファント』に似、誰かがいなくなっていることに気づくもしくは気づかないまったりとした感覚が『明日、君がいない』に似、そして、シモンの存在は、そのまま桐島じゃないか、ということで『桐島、部活やめるってよ』に重なる、とは決して偶然ではないとは思うのだが、つまりは、この、ある短い時間の複雑に絡みあった時間を立体的に描きたい、という「描ける物語」の展開の欲求というものがあるんじゃないだろうか、と思うのである。
すでに行われていることかもしれないが、上記した作品は、いずれも、大きな舞台で同時進行的に演じられ、観客はそれらのドラマを俯瞰して鑑賞する、そういった構成がとれれば、理想なのかもしれない。
 さて、このドラマは、この手法で、先にあげた三つの作品のいずれもが、この手法は、これを目的として編み出したと容易に推察されるところの「ミステリー」としての使用をストレートに初めて行っている。前記三作は、ミステリアスなストーリーをたどってはいても、明確に解明されたい謎がはっきりしていない。今回の映画は「シモンの失踪の真相を知りたい」というはっきりとした動機がある。
 ただし、それをきっかけに、描こうとするのはミステリーではなく、登場う人物である学生たちの、他人への残酷なまでの無関心であり、それは自分にさえも無関心の姿、といえるかもしれない。思ったのは、このぐらい、濃密な学生像を描いた後に『13日の金曜日』のような惨劇が最後に待ち構えても、それはひとつの存在すべき作品になると思うのだが、そうは展開しないのは、そのようなインパクトは、作者が描こうとするもののピントをぼやけさせてしまう危険性があるからだろうとも思う。もちろん、このドラマの最後に惨劇をねっちり描いて「ティーン・ホラー版『マグノリア』」のような3時間弱ぐらいの作品にすれば、それはそれで、強烈な傑作になりそうな気もするが。
 そして、この映画の特色は、爆音かつ甘美なソニック・ユースのロックに重要な味付けを施させていることで、ここが、ほかの作品と印象を分離させる大きなポイントになっている。

 チケット購入の際、簡易プレス的なリーフレットをもらった。監督のインタビューなど、ちゃんと鑑賞の手引きになるもので、こういった配布は、パンフ発売なしの作品にはありがたい。 

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2013年12月29日 (日)

ポップに歴史雑考をジャームッシュ流に行う方法『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』
於・TOHOシネマズ・シャンテ

 ジャームッシュが吸血鬼映画に着地したのは、歴史私評をポップにこなしてしまう方法として、不老人間のアーティストを主人公にして、彼らに語らせるというのが、らしいかな、ということに終始しそう。かつ、不老キャラクターの中では、バンパイアが最もセクシーっぽいかな(ゾンビよりも)。
 ということで、フランソワ・オゾン作品ほか、ファッショナブルに艶っぽい作品の撮影を任せられることが多かったヨリック・ル・ソーがジャームッシュ映画を撮るという意外なスタッフ構成で、知らずに見ると、ジャームッシュ作品とわからないような映画になっているのだけれども、引用されるおびただしい数の文学、音楽、史実などについてのコメントを、クラシカル趣味な絵づくりで繋いで、ひとつの長編映画とする。ところどころに「君は宗教画か」と突っ込みたくなる画面も登場する。
 そして、ラストは、まるでケシシュ映画への興味の断片と思ってしまう瞬間もありつつ、「あ、そうだ。これ、ヴァンパイア映画だったんだ」と思い出して、あわてる感じのおとぼけ。

 パンフ。大きさからして、シングル盤を気取っていて(実際は、シングル盤よりも、少し大きい)。原稿は、主演二人のカンヌで会見内容抜粋、山下敦弘監督の自作と比較してのジャームッシュ論。芝山幹郎氏が、引用事項についてに重きを置いた原稿、松村正人氏の音楽寄りの作品論、チバユウスケ氏のコメント。一瞬、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がリアルタイムでない若い観客への配慮的内容かと思ったのだが、そうでもなさそう。

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2013年12月14日 (土)

秘められた、抑えられた華やかさ・快活さ『少女は自転車にのって』

『少女は自転車にのって』於・岩波ホール

快活なはずの娘と、華やかなはずの母。多くの欧米映画もしくは日本映画でさえも、でこういったドラマだと、見ることができたはずの、華やかな喜怒哀楽は封じられる。本来、ドラマのクライマックスとなると思われる場面で、それは禁じられ、まるで、喜びを感じてはいけないかのように制約され、その環境の中で、互いの幸福を与え合おうとする。
この映画は、あきらかに、世界の「映画を見る人々」に向けての映画であり、すべてのシーンは「私たちは、こういった時、こんな展開になるが、あなた方はこのシーンについて、疑問を感じますよね」という問いを発し続ける。その点において、この監督は、すごく、故郷の内外について、明解な解釈をもっている。
喜怒哀楽は、あらわしてはいけない、といわんばかりの証に、マックス・リヒターの音楽は、メロディの抑揚をつけないサウンドを発し続ける。そして、ラストで、それは少し崩れて、高揚しかける。それは、ヒロインのテーマとなっている。

パンフレットはもちろん、岩波仕様。石坂健治氏が、アジア映画の新潮流という解釈から本作へと向かい、佐藤忠男氏は現在の日本人が見た際に起こる疑問を整理し、辻上奈美江氏は、サウジアラビアに詳しい専門家の立場から社会問題や現状と照らし合わせながら解説、久保玲子氏によるハイファ・アル=マンスール監督のインタビュー、女性がサウジアラビアで監督として映画を撮ることの難しさの具体的なやりとりが興味深い。
そして片岡真由美氏と古賀太氏はともに、印象を手短に。

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2013年12月 8日 (日)

ミニマルな表現の中で「食べること」についての描写が日常的に豊かな 『もらとりあむタマ子』

『もらとりあむタマ子』於・新宿武蔵野館

 これこそ、前田敦子についての知識(自分も、ほとんど知らないが)を全く知らなければ、どうなんだろうか、と思いながら。すばらしいのは、完璧なまでのタマ子の表情の欠落だが、例えば、ジャームッシュ映画の住人たちのような中では、コントを演じている雰囲気で理解できるのだが、べつに、映画空間としては、何かをデフォルメしているわけではない中での、この自然なる無表情は、すごい。ドラマチックにはならない映画を作るための緊張が、わかるような気がする。
 ところで、この映画は、最近の邦画に多い、料理のウエイトが多くを占める作品。それも、料理、というより「食べること」。ラスト近くのタマ子のアイスクリームバーの食べっぷりは、伝説になるに違いないが、食卓で気になったのは、タマ子専用の温野菜サラダの入ったタッパーで、ここから食べる比重が、タマ子の父親への壁の厚さのバロメーターになっているな、と思う。大体、ちゃんとした?料理ではない食べ物を食べるシーンが多い映画は珍しい。
 季節それぞれのパートの区切りのみの一瞬の音楽は、『奇跡の海』を思い出した。

 パンフ。自分が今までに手にしたもので最も大きいが、これは、ミニポスターにもしてください、の意か。原稿は、漫画家くらもちふさこ氏(イラスト付)、作家の山内マリコ氏、マンガ家・大橋裕之氏の4ページまんが、プロダクション・ノート、前田敦子インタビュー、そして「タマ子をよりよく観るための映画」というコラムがあるのだが、この原稿に記名がないのが気にかかる。監督が実際に意識したものか、第三者のライターが思うままに書いたものか。

 そうか、はじめに冷めた?ロールキャベツを食べるシーンがあり、男親とのふたりずまいにしては、しゃれた食事だな、とちょっと思ったが、それは間違いではなかったのだな。

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2013年12月 1日 (日)

ストイックな作りの中で、映画とての毅然さを感じる『母の身終い』

『母の身終い』於・シネスイッチ銀座

 物凄くシンプルな映画である。シンプルな中の、アクセントはクレジットの黒地からクレジットが出るまでの間合いであるとか、沈黙のシーンの次のカットまでの長さである。ラストカットは、ここで終わるか、と思った、少しだけリズム的に長い「間」があってから終わる。
 研ぎ澄まされているな、と感じたのは、主人公の母・息子、そして隣人の関係が、やはり推察さえできないぐらいに、ドラマを拒絶してある、ということだ。ほとんど、会話らしい会話をしない(実際は、これがリアルだろう)ので、言葉の端々に出る情報で、彼らの過去のドラマがわかったりするが、それさえもない。人生の多くは、自分以外は知られずに終わるものだ。
 謎は、ランドンとセニエのラブアフェアで、このエピソードだけ、完全に分離している。ランドンの出演交渉の条件として、こういうシーンを入れたんじゃないか、とさえ思えてくる。そうだとしても、べつにいいけれど。ランドンがセニエに、ラスト近くで言うセリフが、ほぼ唯一、ランドンが自分を冷静に見ようと決断しているのがわかる箇所と思えるので、これを重要な意味ととるかどうか、だろう。

 ところで、本作、スタッフがシブい。音楽がニック・ケイヴとウォーレン・エリスがクリント・マンセルかルドヴィコ・エイナウデイか、という音を出しているが、クレジットみると2007年作品を使用しているということで、『ジェシー・ジェームスの暗殺』を聴きなおしてみる。
撮影のアントワーヌ・エベルレは、オゾン『まぼろし』、パレスチナ映画『パラダイス・ナウ』、イスラエル映画『ジェリーフィッシュ』、ブルーノ・バレットのブラジリアン・バイオレンスもの『シティ・オブ・マッド』、そして『故郷よ』、といった、あらゆる国籍のいずれも超シリアスな題材の尖った作品にばかり参加している。もう、この人の参加は、どんな絵が取れるかだけじゃない、エベルレだからわかる哲学があるような気がする。画調はジョン・シール的柔らかさと思うが、それをもっとシンプルな条件で撮っているのではないか、と思われる。

 大体、このステファヌ・ブリゼ監督が驚きなので、これまでの作品の題材からしても、もっとベテランの職人かと思いきや、66年生まれで、まだ40代なのだ。

 パンフ。シネスイッチでの上映ということで、テーマ主体になるのはいうまでもなく、秦 早穂子氏、上野千鶴子氏が母の話、母と息子について書く。そして、国によって状況が異なることを解説しておかなくてはいけないので、社団法人・日本尊厳死協会理事長の岩尾聰一郎氏が書いている。インタビューは監督とエレーヌ・ヴァンサン。フィルモグラフィーはキャストのみで、スタッフ紹介は、なし。

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淡々と記録した、映写についての貴重な資料映画『旅する映写機』

『旅する映写機』於・ポレポレ東中野

「映写機」があるコヤに特化しての、個性的な映画館のオムニバス的紹介作品。嬉しかったのは、それぞの映画館が、どういう立地にあるのか、という周囲の風景をしっかり記録してあることである。大心劇場などは、まさしく劇場に行く道中も含めて劇的である。
「流しこみ」について気になったのは、映写終わったほうのフィルムをどうするのかが映っていなかった事。一旦、床に放置しておいて、手動で巻き取っていくのだろうか。二台あるうちの一台が壊れてしまった場合、緊急の上映方法としては、この形をとることになったろうかなぁ。(以前、自分が関わった劇場は、ひとつは二台の切り替え、もうひとつは、大きな円盤にフィルムをひとつにまとめて、リールの中心からフィルムを送って、外円に巻き取っていくというタイプのものだった)
そして、さすがに映写機について、機種までしっかり解説しての、硬質で感情を入れない純・文化映画仕様、ナレーションも、森田美由紀タイプ風な、優しいが中庸な無感情の、最も自分がドキュメンタリーのナレーションでベストと思っているスタイルで、心地よかった。
いずれにせよ、プラスでもマイナスでもなく、淡々と「記録しておこう」という試みと思う。少なくとも、これで「映写」についての記録映画がひとつ誕生した、という貴重な財産であり、資料である。

 パンフは、大混雑の『ある精肉店のはなし』との入れ替えでごったがえし、買えず。

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