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2014年1月12日 (日)

病院ではしゃぐ子たちに幸福と焦燥を共に見る『鉄くず拾いの物語』

『鉄くず拾いの物語』於・新宿武蔵野館

 この映画の全体としての感想は、まず「物語とは何ぞや」ということ。予告編で、そのことがクローズアップされているため、ある「出来事」の前・中・後、とわけて考えがちだが、いや、待てよ、と。
 この映画の魅力は、もくもくとまきを割ったり、パイ生地をこねたり、病院の廊下で子供たちがはしゃぎまわったり、という、「日常」という単語の方にあてはまる事柄の方にあるのじゃないか、と思い返すのだ。
 まるで、大きな牛を解体するかのような、クルマの解体(正直『ある精肉店のはなし』と将来、二本立てで見たい、と一瞬思った)や、工場で栄える町の様子を横に見ながら、古いクルマで向かう病院への道。いずれもは、セリフはないし、狭義での感情描写はないけれども、淡々と「こなす」「生活する」ことに物語がある。そして、その「作業」は、日常、行っている人間そのものほど、リアルにナチュラルにこなすだろうと思う。生活者本人を演技者として依頼した意味はここにあったのか、となるほどと感じ入る。
 この映画は、自分たちとは異国の地の家族の物語だが、驚くのは、誰が何を説明しているのでもないが、その心情の想像が難くない、ということ。この監督の、その世界の観客に対しての信頼度は相当なものなんじゃないか、とも思う。
 映画の成立として、巧妙と思えるのは、前述通り、明らかなる「事件」をちゃんと盛り込んでいることで、それによって、観客にはよりどころがある。
 気になったのは、ことが収まりかけるや否や、時間の進行があっという間に早くなっていくこと。それまで、じっくり収められていた仕草や行程が、次々と省略されていく。それは、それまでに収録した状況に戻ったことを意味するだろうか。そして、以前の状況に戻ったことを知らせるキーワードをもって映画が終わる。
 誰の人生も物語になりうる、という考えは、「作業」というものが多い人生においては、セリフの助けを必要とせず、成立するだろうな、と思った。

 パンフレット。監督のインタビュー。評論は、大場正明氏、監督来日時のシンポジウムのトーク採録、元在ボスニア・ヘルツェゴヴィナ日本大使館専門調査員の片柳真理さん。そして最後にコメントが、天童荒太、砂田麻美、伊藤隼也、アグネス・チャン、大宅映子、中嶋朋子、森達也各氏より。

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