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2014年3月22日 (土)

細部に渡って、観客に刺激を与え続ける『坂本君は見た目だけが真面目』

『坂本君は見た目だけが真面目』3月16日 オーディトリウム渋谷

『坂本君は見た目だけが真面目』は、多くの点において、映画の定型に疑問を投げかけつつ、定型に敬意を払ってもいる、優等生的反逆児とでもいいたい映画だという印象がある。
この物語は、結局は「先生が生徒を指導するつもりが、実は問題があるのは自分のほうであると気づかされる」、ある意味定型の学園ものではあるのだが、この「問題生徒」の問題性が、今までと異なる。
「問題生徒が存在するのに、それを放置していた、今までの状況」は本来、ネガティヴに捉えられる設定だが、この映画でのそれは、「これは問題なのか否か」こそが問題になってくる。
 クラスメイトの「問題児」に対する認識も、決して不良ではない彼に対しての、ある種の理解の態度の表れ。これは、新しいというよりも、こういったパターンは描かれてこなかった、そこにあると思う。
 社会問題において、「問題となる数パーセントにも満たない確立で存在している極端な悪例が、そればかり頻繁に報道されるがために、あたかもその状況が主流に近い判例であるかのように錯覚する」というのは、パターンというより、ほとんどの事象について発生していると思う。特にドラマ、フィクションの人間ドラマで見たいのは「過去には、まだ語られていないパターン」をとりあげることだ。
 坂本君の、授業欠席についての母親の態度も、「あまり語られていないパターン」に属するもの。つまり、教師側は、ステレオタイプの行動で始めるが、たちまち、それでは立ち行かなくなり、根本を考え直さなくてはいけないところまで追い詰められる。
 この映画で描かれた範囲では、この教師は、まだ答えを見つけていない。本当に教職を去るのかどうかもわからない。今までの定型で行けば、主人公が信念をあきらめるのはご法度のようにも思えるが、それまでも、定型以外を進んできている物語だから、「普通だったら、こう描かれる」は参考にならない。
 定型を嫌ったエンディングは、重要人物不在の、一見大団円のクライマックスもそうである。クライマックスで披露される事柄もそうである。まるで、この脚本が「はじめ、紋きりプロットを一旦用意して、それを細部ごとにひっくり返して行った」かのような展開なのである。
 そして、そのクライマックスは、それまでの巧妙に作られた脚本から、一旦自由になる。それは、現場をつくった仲間たちの大切な時間を生で記録するショットもちょっと入れておく、という「打ち上げ」感である。
 この「定型ドラマ」を、ことごとく細かく崩して行く感じ、そしてそれは、結果、決してスラップスティックではないスタイルでコミカルになるもの、そして、その、少しずつの連続した「違和感」は、見る側の意識の中で、都度都度、チクっと感覚のツボを刺激するような快感を呼び起こすのだ。この持続が、結果「面白い」ということになるのだろう。

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2014年3月15日 (土)

大切な作品を邦画界に新しく残したと思います。『5つ数えれば君の夢』

『5つ数えれば君の夢』於・シネマライズ(3月9日鑑賞)

  20代の女性監督にしか作れない映画というのはあると思う。というのは、5人の10代の女の子たちに、「公に映る瞬間の中では」今までに見たことのない表情、しぐさを、20代の同性監督ならば引き出すことが可能だろう、というきっかけから、まず興味はわいた。そして、例えば黒沢清がトウキョウソナタの時に「小津映画のよう、と思ってしまったら、意識しないでおこうと思っても、スタッフたちの意識が自然とそこに行き着いてしまう」旨の発言わしていたように、リンチの映画、三池の映画、園の映画、といえば、その空気になっていき、その監督の作品に昇華されていく感じを想像できるように、早くも「20代天才文学/哲学少女型映画監督」としての山戸友希映画の世界が確立してしまっているのだ。
 そして、それは、こちらが、そういう映画を期待する、以上に、そういう映画だった。それは、これは映画ではあるけれども、自身の映画的記憶が色濃く反映するタッチのものではなく、手法が、映画以外の感覚から発させられているように感じるからである。
 映画は、整った物語は存在するけれども、一度描いた輪郭を一度消し去って、そこに薄く残った物語の跡を自由詩でなぞっていくかのような構成。編集を監督自身が行っているところもおそらくポイントで、それは、まるで詩人みずからがポエトリー・リーディングをしているような状況になっている。
 少女がノートに書き綴る夢物語をそのまま感覚まで忠実に映画化したかのような映画。それは、100%その感覚に近い作品に出会ったことのない側にとっては、本物の、より本物らしい本物、に出会えた衝撃のようなものがある。これは絶対、ピュアな状態を忘れない状況にしか作れない映画だと思うし、この、まだ、新鋭の名がふさわしい時期に、この作品が形作られたことは、監督の今後の軌跡にも大切だし、映画界にとっては、「若き才能に託してみること」の意義がここで発生したと思う。思えば、例えば、ヌーヴェルヴァーグの頃も、のちの巨匠たちのデビュー期の年齢を調べると、そのあまりにもの若さをいつもまぶしく感じてしまうのだから。

 パンフ。もちろん東京女子流のインタビューから始まるが、聞き手は直井プロデューサー。そして女子流以外のキャストのプロフィールをはさんで、中森明夫氏のアイドル映画として見る作品論だが、それよりもやはり岩井作品などに近寄っていく。そして平松可奈子氏が、アイドル先輩?的視点から女子流を見つつ。山戸監督のインタビューは聞き手が森直人氏、そして、小野華子氏が、山戸監督論を山戸調にも似た詩的な文体で。そしてスタッフ・プロフィール、そして針谷・直井両プロデューサーの対談、プロダクション・ノート、今日マチ子先生のイラスト2点、Vampilliaと岡田音楽プロデューサーへのインタビュー。もちろん、シーンのスチール・カットはふんだんに掲載。ほぼ全方位的構成。

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可能な限りシンプル化された人間ドラマ『家族の灯り』

『家族の灯り』於・岩波ホール(3月9日鑑賞)

 人生を多く見つめてきた監督にとっては、世界の事象は、これほどにもシンプルに語りつくせるのだろうか。この作品に登場する、人物たちの表情は、世界のその世代、役割の人々の集約のように見え、そこで話される他愛なさと深刻さの両方を伴った会話も、人生における様々な状況を集約して、つまりは、これのようなもの、といい替えていくかのよう。ランプの位置は、シーンによって移り変わり、シーンごとの登場人物たちの力の上下関係がそこにあらわれるようだ。
 会話劇といえば、晩年のベルイマンの『秋のソナタ』は母と娘の会話の中に、長い歴史における母娘の愛憎がスペクタクルよろしく展開した。シンプルといえばタル・ベーラ『ニーチェの馬』は、事象を敢えて極度に純化させ、まるで描く時間(分・秒)の中にこそメッセージがこめられた。
 『家族の灯り』は、構図もストイックだが、背景、静物が、絵画を思わせる複雑さで光を捉える。絵画のような美しいフレームの中で世界を煮詰めてできあがったシンプルな物語。ある意味、そこまで達観しちゃあおしめえよ、的な思いも、自分の中ではある。

 パンフ。まず土屋好生氏がエキプ・ド・シネマ40周年に向けての思いから、『家族の灯り』へ思うところまで。オリヴェイラの紹介は、解説に1ページ、フィルモグラフィに1ページを割く。佐藤忠男氏は、他作品を例示することは避けて作品を人物描写から読解、澤田直氏が、オリヴェイラの監督論的な切り口から、作り方/構成から本作の独自性を考える。そしてオリヴェイラと、モロー、カルディナーレ、ロンズテールを初めとするキャストたちへのインタビュー。最後は、後藤岳史氏が、全体的に目を配った作品論。ということで、岩波ホールのパンフに珍しく、シナリオ採録は、なし。

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サスペンス・ホラーとは異なる世界へ。『パズル』

『パズル』於・ヒューマントラストシネマ渋谷

 表面にある残酷な事柄は、様式美たっぷりに描かれ、本番直前までアイデアを煮立たせて、感情の波にその激しいため息を吐き出すかのように、緩急をリズミカルに作ったテンポで映像は進んでいく。
 カウントダウン的な構成と、それでいながらそれに縛られない一見自由なリズムは『ダラスバイヤーズ・クラブ』に似ている。
 音響と、有田尚史による新しい感覚のリズムの実験への敏感さを感じさせる美しいノイズすれすれの音楽が、その疾走する映像にかぶさり、サスペンス・ホラーという世界とは少し違う場所へ誘う。
 ラスト近くの夏帆の疾走シーンと、エンドクレジットがまさしくこの映画のクライマックスのように機能していき、「痛い」と隣り合わせの「美しい」感覚が、デジャヴュ的な近過去サスペンス・ホラーへの思いのかけらとミックスする。
 園映画とも中島哲也「告白」とも流れる感情に接点はありそうだが、「パズル」が味わせる、ホラーなはずなのに、甘い夢のような後味がかすかでなく残る。これは、過去には体験したことのないものだ。

 パンフは、なんと発売されていない。

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2014年3月 2日 (日)

華やかなA面のみを宣伝材料として『ラヴレース』

『ラヴレース』於・ヒューマントラストシネマ有楽町

この映画は、ポルノ映画にまつわる話だから18禁なのだろうけれど、これこそ、例えばティーンエイジは見るべき、人生疑似体験ではないか、とも思った。前半を占めるファンキーで華やかな喧騒。この作品が真面目に構造的なのは、この前半を輝かしきA面として見せ、何事か、と思わせるB面の導入から、まるでミステリーの解答編のように、まさしく「舞台裏」を見せていく。この構成のために、A面で、何を見せないかは細心の注意が払われ、セリフというセリフも、複線的役割を果たしている。映画がすべて語られたところで、前半に抱いていたイメージが、あまりにも現実とはかけ離れていたことを痛感する。
この映画が、一般論的教訓にまで落とし込もうとしているかは不明だが、この「破天荒な発想のポルノ」という側面を差し替えれば、多くのスター物語は、語られていない面もあるだろうことを再認識させるのだ。
社会にとって面白い、都合のよい物語、それは裏話も含めて、送り手が意図して製作する場合もあるし、メディアが、自分たちが発信したい物語に改変してしまうこともある。
『ラヴレース』は、A面のみを宣伝材料として使っている。これもまた、送り手側の作為だが、「送り手には作為がある」というメッセージをこめた多重の主張が、この映画の場合、成り立っているのだ。

 パンフレットは、まず、実は豪華なキャストのフィルモグラフィーが詳しい。スタッフについても詳しく、何を撮るかの題材に骨のある監督の作品の製作にあたって、まさに、信頼できるプロが集まっていることがわかる。インタビューはセイフライドのロング。コラムは、松浦泉氏の70年代カルチャーの解説中心のもののみ。リンダの自叙伝発売による反響周辺を解説するコラムはない。

 追記。セクシュアリティーについてメッセージのある作品での登板が多いスティーヴン・トラスクによる、今回のスコアは、彼の作品の中でも記憶しておくべき美しさ。陰をあまりにももちながらも美しいメロディを不器用に鳴らしつつ、そこにストリングスが、まさしくスコア然として形作られていく。ピノ・ドナジオの奏でる美しさに似ていて、そういえば、デパルマ作品を思わせるカメラワークのシーンもあったことを思い出した。

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2014年3月 1日 (土)

多くの人々と語り合いつつも孤独な『グロリアの青春』

『グロリアの青春』於ヒューマントラストシネマ有楽町

 同じ名前の流行歌が存在する人は、一生、自分のテーマソングのように、まるで不治の病のようにつきまとい、それと一生つきあう覚悟で生きなくてはいけない。しばらくは、悠々自適に離婚後の人生を楽しんでいる50代の女性の時間を淡々と映し、それが見ている側は、若干批判的なニュートラルの状態で見つめている。この女性の状況、そして心情は、うすうす気づき始めるが、それを一本の映画として昇華させるには、何を発火点とするのか、をスリリングに見つめる。
 事件らしい事件は起こらないながらも、女性の細やかな心情が、全然細やかではない状況描写によって説明されていく。彼女にずっと寄り添っているのは、観客たちだけなので、さまざまな人間たちと、表面的には、崩壊していない普通人の、目立たない一人の女性にしか写らないだろう。だが、自身の焦燥、作り手によっては、感情を大きく爆発させて、すべてを吐露するシーンを設けても不思議のないこの状況下。だが、この映画は、大きな爆発ではなく、彼女が行う、一瞬一瞬のささいな非日常への冒険による、ある意味ガス抜き的、自分をだましだまし生きるすごし方に自己を落ち着かせていく。
 すばらしいのは、彼女のドラマは、彼女ひとりで完結しなければいけない部分が多々あるため、沈黙で行動のみのシーンが、ひたすらに意味を持つことだ。逆に、言葉というものの空虚さも感じさせていく。邦題に「の青春」を加えたトランスフォーマーは、なかなかの皮肉屋だ。

 音楽は、現代のサンチャゴで流れる感じだろう、現地の今なポップスがソースとして流れ続けている。ある一定の喧騒としてのポップスは、空虚さの演出に効果的だ。

 パンフは監督と主演のインタビュー。コラムは安藤哲行氏がチリ現代史的側面と照らし合わせて読み解き、松山梢氏が恋愛論的立場で書く。スタッフ、キャスト解説は、レリオ監督、主演のガルシア、エルナンデスの三名分のみ。

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熱い主題をしなやかにテクニカルに見せる、作られるべき映画のひとつの形『ダラス・バイヤーズ・クラブ』

『ダラス・バイヤーズ・クラブ』於・シネマカリテ

物語の全貌が判明すると、ものすごく硬い作りの映画になりかねない、もしくはあまりに熱い映画になりかねない物語を、いかにテクニックを駆使して見せるか、という難題の解答ともいえる作品であったことがわかる。冒頭の、ある意味ショッキングというか大胆な導入は、この映画がどういうスタンスでいようとするかの宣言のようであり、それはテクニカルな光の取入れでの撮影、凝った編集と音響効果という「見せ方」についての宣言でもある。挿入されるクレジットの間も、そうである。
 この鮮烈でえげつないストーリーを、柔らかい画像と色彩でおさめ、キメにキメまくった、やややりすぎ感さえ漂う編集のドライブ感、そこに、主観としての音響を全面的に取り入れるという、なかなかありそうでなかったアプローチというテクニックで、芸達者な役者の体当たり演技が納められている。
 編集は、カットカットのリズムもだが、物語をどう省略するか、どこを見せないか、どこに執着しないか、というところでも、この映画の進もうとする道筋が見える。

パンフレットは、技巧を抑えて、読ませるパンフ。ちょうど映画の舞台となる同時期にアメリカで映画対策団体に参加した宮田一雄氏が、史実としてのダラス・バイヤーズクラブを解説。そして、主役ふたりのインタビュー。フィルモグラフィーは、キャストと監督は詳しいが、スタッフについては少ない。撮影のイヴ・ベランジェについての言及がないのが残念。

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