2014年4月27日 (日)

『あなたを抱きしめる日まで』のデスプラのサントラは、まるでファンタジー

 作品鑑賞からしばらく経ってしまったが、ようやくサントラをちゃんと聴いたので、『あなたを抱きしめる日まで』のサントラについて。
 サントラのラストで、まさにそのものな、ストリートオルガンを使ってのバージョンが出てくるのだが、テーマは、ちょっとお茶目で幻想的なワルツ。これだけ聴くと、ダニー・エルフマンと思うかな。いずれにせよ、メインテーマとして、しっかり記憶に残るキャッチーさをもったメロディ。その変奏もあるのだが、映画鑑賞中に感じた「ジョン・バリーらしさ」に、やはりフィリップ・サルドやジョルジュ・ドルリューを想起させるトラックも通り過ぎて行く。特に「Landing in USA」から聴こえ始めるメロディが、もうドルリュー。
 いずれにせよ、音から聴こえるイメージだと、思春期ごろの少女を主人公にしたファンタジー、かと想像する。過酷な過去を持ちながらも、永遠の少女で、ハーレクイン・ロマンス的な世界への逃避?を好む可愛い年配の女性、という主人公の、内面で展開している、ファンタジーに具現化された世界が、本スコアであるかのよう。
 デスプラ世界には、ファンタジー要素はいっぱい詰まっているが、コメディ要素は、あまり記憶にない。『愛のエチュード』『真珠の耳飾りの少女』あたりでイメージがつき『ベンジャミン・バトン』で決定付けられた、ラヴ・ストーリー要素も強いファンタジー音楽としてのデスプラのオーケストラ・サウンド。その流れを汲むもので、こちらも多く担当しているジャンルである、サスペンスの側に入るものではない。これが何とも粋なアプローチであろうと思う。

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2013年7月18日 (木)

個人的映画音楽考察総括その2。  クールな中のキャッチーさ。あまりにCD化のないダニエル・パトゥッキについて

 ステルヴィオ・チプリアーニと違って、ダニエル・パトゥッキは、どうも、好きな人は好きなようなのだが、CD化がまだ全くといっていいほど、されていない作曲家である。まず、私自身の中で、なぜ、チプリアーニに告ぐフェイバリットな作曲家としてあげるほどになったのか、ということを振り返ってみる。
 多分、ひとつの理由として、「CARA SPOSA」なる作品のサントラの存在があると思う。いまだにこれもCD化はされていないが、チプリアーニとパトゥッキの共作で、LPには、チプリアーニとパトゥッキの曲が交互に並んでいる。
 80年代頭に、パトゥッキが担当した作品が立て続けに公開される。『ウイニング・ラン』『グレートハンティング84』『カランバ』『猛獣大脱走』。のちに、マカロニウエスタン『ロス・アミーゴス』を担当していることや、それ以外にも艶笑史劇などがディジットムービーズでCD化されたり、おそらく、ジャンルの守備範囲は狭くはない人なのだと思う。
 が、80年代の、あげた諸作のインパクトはあまりにも大きかった。『グレート・ハンティング』(として公開された、アントニオ・クリマーティとマリオ・モッラによる残酷ドキュメント)のそれまでの2作のサントラはすっかり愛聴盤化していた自分としては、続く84(別に続編というわけではないのだが、同じスタッフ、同じコンセプトによる新作)ということで、当初、日本でもLPが発売になる予定で楽しみにしていた。が、結局、84としてはシングル盤がリリースされたのみで、当初LPとしてリリース予定だった品番は、最新サントラ・ヒットみたいなアルバムに当てられたと記憶している。
 映画としては、『猛獣大脱走』は、先に作品を見ていたと思う。確か、すみやのリストでそのタイトルを見つけたときには、狂喜乱舞だったと思う。それほど、この作品は、サントラがかっこよかった。これは、なんといったらいいか、刑事アクション的にかっこいいフュージョンの、よりドスを利かせた感じだが、すぐに覚えられるほどのキャッチーなメロディも持っていた。
 80年代のパトゥッキの諸作は、まあ、作品の性格にもよるのだが、クールでハートボイルドなのだが、ベタなキャッチーさをしっかりともったメロディが常に、そこに乗るのである。残酷ドキュメントに美しいメロディねはセオリーではあったが、オルトラーニ的な澄み切った美しさじゃなくて、ニヒルさがまとわれていた。シンセの使いっぷりも、80年代的ホドホドさのモダンな感じがあった。
 そして、それらの作品を凌駕し、それまでのイメージを覆してオルトラーニ的美しさの作品も残していたことが明らかになり、パトゥッキ最大の名盤であるかもしれないのが『シャーク!』であり、これはちゃんと日本でLPが出ていた。
 が、これらはいずれも、CD化されていない。その鬱憤を晴らすべく、日本でカルチュア・パブリッシャーズから発売の「ヨーロピアン・シネ・スーベニール’70」で、CAM保有音源であるところのパトゥッキ『シャーク!』『カランバ』のテーマ的主要曲は収録された。『猛獣大脱走』『グレート・ハンティング84』は、まだコンピにも収録されたものがない。やはり、このあたりのジャンルも手がけてくれるのは、ディジットムービーズしかないかなぁ、と待ってはいるのだが・・・

 次は、何をとりあげるかと考えて、『ザ・チャイルド』(ワルド・デ・ロス・リオス)『エアポート77』(ジョン・カカバス)なども思うが、なかなか音源が揃わない作曲家さんたちなので、マイ・フェイバリット『ハリーとトント』や『ふたりでスローダンスを』『アンクル・ジョー』あたりから思いをはせてビル・コンティを取り上げてみましょう。

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個人的映画音楽考察総括その1 イタリアン・サントラ界において、 孤立するメロディメイカー、ステルヴィオ・チプリアーニについて。

 個人的見解多めで、一度、サントラ全体に関しての考えることを、まとまった文章にしておかないといけないな、と以前から思いつつ、実行していなかった。いよいよ、してみようと思う。

 まず、やはり初めは、ステルヴィオ・チプリアーニについて、書いておかないといけないでしょう。
 これについては、何度か書いていますが、私が、初めてスクリーンで見た洋画が『ラストコンサート』であり、おなじみ、『カサンドラクロス』との二本立てで、ラスコンを先に見たため、こういうことになっている。
 自分にとってのチプリアーニのトラウマ的ベストは『ラストコンサート』ではなくて、『テンタクルズ』である。理由は、やはり、ジャンルにミスマッチな音楽、ということもあるだろうが、作品への評価としてのトホホ感との対比でのいとおしさのようなものもあると思う。
 今となっては信じられないが、イタリアン・サントラのCD化がコンスタントになされるようになりはじめた頃は、チプリアーニの音源は、全くといっていいほど、とりあげられていなかった。当時は、DJたちにも愛される面白いビートのものメインなところがあったため、ビートというよりもメロディで聞かせたチプリアーニの音は、なかなかとりあげられなかったのだと思う。
 なので、日本で『ラストコンサート』、そして『モア・アモロッサ・チプリアーニ』『シニョーレ・チプリアーニ・テンポ』といった選曲盤がリリースされるにあたって、日本での人気がどうも目立った用でもあった。
 チプリアーニの人気の一端にマカロニウエスタン側の要因もある。ただ、その頃は、代表作といわれた『荒野の無頼漢』も『盲目ガンマン』も、CD化されるのは少し経ってからなので、現在の充実したリリース・ラインナップの方向に舵をとることになったハシリは、多分、ディジットムービーズが『殺人魚フライングキラー』を発売したところからだろう。
 チプリアーニの音に愛着をもってしまう理由には、多くの作品が、いずれも、初めて聞いてもすぐにチプリアーニ節とわかる、独特のメロディまわしをもったメロディを、ストレートに出してくるところにある。そして、珍しいのは、そのチプリアーニ的メロディ展開が、他の作曲家の作品で聴けることがほぼないのだ。イタリアン・サントラにおいて、チプリアーニのメロディだけが、明らかに浮いているのである。
 イタリアのサントラ・コンポーザーたちのメロディの多くは、陰をもった美しさがある。だが、その逆で、チプリアーニのメロディは、一見哀しいメロディでさえ、明るさが聴こえてしまうのである。
 チプリアーニは、マンシーニに憧れた、という話で、そう考えると、マンシーニのメロディも、一見哀しくても、明るさももつロマンティックさをかもし出している。が、マンシーニには『ひまわり』といった、それは明るさではないだろう、的な名曲がオードリー後に存在する。チプリアーニは彼にとっての『ひまわり』的作品は、今のところ、見当たらない。
 ただし、その例外ない明るいロマンティックさ、これが結局チプリアーニものを特別なものとして際立たせる要因になり、新たな発掘の作品を聴くたびに、それをまた証明させられるようで楽しい。そんな状態が続き、現在のチプリアーニ作品、続々のCD化、となっていると思っている。

 次回は、こうなると、ダニエル・パトゥッキについて書くことになろうかと思います。

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2013年3月18日 (月)

モリコーネとタランティーノの映画音楽についての見解の違いについて他 思うこと

かの「シネマトゥデイ」掲載の記事より考えること。つまりは、どちらがいい悪いじゃなくて、アプローチ方法の相違ということなのですが、何より、まずタランティーノの「映画作り」そのものが、オーソドックスな映画作りの発想と違うので、そこは理解できたとしても、「ものづくり」的な面で違和感はあるだろうと思う。
もちろん、売り出し中の作曲家もしくは、バリバリのあのスケジュールに慣れた放送作家的スケジュールでこなす作業が日常の作曲家なら、ギリギリの時間調整も当然かもしれない。が、誰も異を唱えない巨匠クラスの作曲家やアーティストと初見で話をもちかける場合などは、音楽じゃないが、有名な、幻冬舎の編集者の作家へ依頼する時の話とか、モリコーネだったらトルナトーレの時の話とか、エルマー・バーンスタインとトッド・ヘインズの話とか、やはり、時間を考えず、最終目的にはいきなり踏み込まずに、情熱をじっくり伝える過程はなければ、相手も話に信憑性を帯びさせてないと思う。
もちろん、タランティーノが、それまでに、モリコーネに対して、どういった熱意の伝え方を(間接的ではダメで)していたか、はわからないが。
また、タランティーノの映画における音楽は、もう「かつて、べつの意図で作られた音楽にもうひとつの意味を持たせる」ことの面白さであることは、疑いなくなってきている。問題は、その使われた曲の作者他当事者側が、「そんな使い方はしてほしくなかった」的な意向を少しもっていた可能性の場合だ。もちろん、互いに大人なので、あくまでビジネスで使用されていることに、いちいちかまっていられない、という人もいるだろうし、意外に、とりあげられることがうれしい人もいるだろうし、逆に、そんな使い方だったら許諾しない、と使えなかった曲も、おそらくあると思う。
タランティーノがすでにセレブであることから、そんな彼の映画で使用される、ということで驚く、という「使い方」以前の話のこともあるだろう。モリコーネの場合、タランティーノの常の映画使用音楽との対峙の仕方は知ってはいるようである。映画音楽、とくにスコアは、その映画の音楽として使われる以上の用途で広がっていくことは想定していないだろうから、単独楽曲があらたに引用されることとはまた意味を異ならせるのだ。
タランティーノがそうなれば、タランティーノじゃなくなってしまう、とは思うかもしれないが、トライしてみてほしいのは、しっかり、新たな正統派スコアのみを流す作品にする、とはっきり決めて、長い年月がかかることを承知で、モリコーネと何度も話し合いをもって、じっくり作る、そんな映画製作だ。
そして、たしかにタランティーノの映画は、いずれも暴力と流血の嵐だ。「誰も死なない物語」も、ひょっとしたら、タランティーノの課題にしてみてほしいひとつかもしれない。『フォー・ルームス』だったら、モリコーネも喜んでうけてくれたかも、と冗談でなく思う。

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2013年3月 4日 (月)

「映画ファン」が住む町の「ご当地映画」。『インターミッション』

『インターミッション』於・銀座シネパトス
シネパトスの特色のひとつは、劇場そのものがひとつの建物、というものでないために、古い映画館然とした外観をとれない、ということがある。その代役として、三原橋商店街の地下に降りる階段が何度もフィーチャーされるのだろう。そして、シネパトスはなんといってもロビーが狭いので、ロビーでのドラマはほぼ無理で(ひとつあるが)、結果、劇場内でのドラマになるが、なんという大学生活の部室感覚なことよ!この物語を外に全く出さずに中で完結するドラマ以上に膨らませないで、別のドラマに逃げるのは、破綻させないためにもクレバーであろうと思う。
まるで、部室的な劇場を取り巻く狭い世界は、ひとつの地方都市のようで、「映画ファンが住む町」というバーチャルにつながる町の「ご当地映画」といっていいと思う。そのご当地感とは、この映画館を知っているか知らないかで、入り込みようがあまりにも変わってくるだろうし、広がることは、そもそも放棄していて、それよりも中の人間たちを大切にしている作品である、ということである。
菅野祐悟の音楽は、やはり多くは『ニュー・シネマ・パラダイス』を思い起こし、それは間違いないと思うが、個人的には、東京国際映画祭がまだ文化村をメイン会場にしていた頃の、上映前に流れた東急グループの協賛CMでの岩代太郎の音楽を思い出した。いずれも、ノスタルジーであることに変わりはない。(敬称略)
そして、この映画は、特にシネパトスにとっては、ということだろうが男の映画ファンにとっての、という作品なのだな、と思わざるを得ないのは、出演者のチョイスであって、基本は、現在「今も元気にされているのか確認したい」昔のスターたちであり、メインは女優だ。男については、主役に『ヒミズ』『サイタマノラッパー3』という、こちらは今後の邦画のカギになるに決まっている作品の2人を同じ世界に連れてきた、というところがメッセージ。少し前ならば、クセのあるインディーズといえば、浅野、永瀬、ムラジュンだったと思うのだが、もちろん、時代は、刻々と移り変わる。
パンフはすべてが友情出演とでもいうべき、それぞれがネタをもったアクター諸氏なので、その俳優たちの人物説明でページを取るが、これは、ひょっとしたら、鑑賞前にチェックしておいてもよいかもしれない。そして、スタッフの解説が丁寧で、こちらも事前予習がよいかもしれない。

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2012年4月25日 (水)

ドライヴ・スコアとシンセ・サントラについての個人的まとめその1

シンセサイザーもしくは電子音楽/打ち込みによるサウンドを中心に構成されたサウンドトラックについて、まとめて考えて見ます。
そして、このサウンドは、おそらく「サントラにおける非メロディ的構成の作品」の存在と切り離せないものだとも考えております。
さて、電子楽器が映画音楽に取り入れられるのは、『禁断の惑星』であったり、ハーマンのサスペンスものであったり、実験であるかのようにあらゆるジャンルの映画音楽に取り入れたラヴァニーノであったり、というものが登場しますが、後の、シンセによる映画音楽の発想のもとになっていると思われる作品は、それそのものは生オケものですがゴールドスミスの『猿の惑星』と思います。『猿の惑星』はゴールドスミス自身が具体的なメロディを排することに挑んだもの。「映画音楽」といえば、それまでのイメージは「メロディアスなもの」のイメージであったために、ゴールドスミスのメジャー大作映画におけるこの発想は、その後の映画音楽を考えるためのSFとも取れるもので
あったでしょう。
さて、本当に電子音楽の作品で、センセーショナルなタイトルとなったのが、電子音楽にも興味を持っていたジャズマンのギル・メレにロバート・ワイズが依頼した『アンドロメダ・・・』でしょう。非音階、特殊なリズムを取る電子音。前衛的なフリージャズをエレクトロ化したような、無音階ながらのポップさ。そして、ジャン・ミシェル・ジャールの『燃えつきた納屋』、これは無音階ではなく、叙情的なメロディアスなメロディを、激しいシンセビートの中に埋もれさせる、という違和感でシンセ音の新たな使用法をさすがシンセ奏者ならではのアプローチで聴かせる。
そのかたわら、非メロディ的なサントラは、ジャズの感覚を基調にシフリン『ダーティハリー』や、ドン・エリス『フレンチ・コネクション』、シャイア『サブウェイパニック』などの、現在では「かっこいいサントラの代表」ともいうべきメジャー作品で試されるが、公開当時、いずれも、サントラLPは発売されておらず、音楽単体で聴く興奮については、考えられていなかった。
ちょうど、日本でも喜多郎の登場などでの、シンセ音楽の叙情性がちょうど大きくクローズアップされ始めた頃に、ヴァンゲリス『炎のランナー』、ジョルジョ・モロダー『ミッドナイト・エクスプレス』などのメロディアスなシンセ・ナンバーがアカデミー賞を受賞したりと、時代の変化を感じさせる状況になってくる。(オスカーはとっていないが、ハロルド・フォルターメイヤーの『ビバリーヒルズ・コップ』内の「アクセルF」のような、その頃の代表曲もある)。
前後するが、そんな時代の少し前に登場しているのが、タンジェリン・ドリームである。多くのロック/ポップ・バンドは、映画音楽を担当しても、それが彼らの職業化していくことは少ないのだが、タンジェリンの場合は違って、『恐怖の報酬』で担当して以来、クールなアクション『ザ・クラッカー』やアナーキーでエロティックな青春映画『卒業白書』でのアプローチなどで、さまざまなジャンルにおける「幻想的な世界」という、今までの映画にはなかった世界を味わわせることになる。そして、タンジェリンのサウンドは、どちらかというと、キャッチーなメロディを持たないものであり、シンセ・サウンドが幻想性の代表的な使われ方を始めるのは、タンジェリンのイメージが定着したのではないか、と思う。
面白いのは、『猿の惑星』の世界を展開したゴールドスミスは、シンセを使用した『勝利への旅立ち』『未来警察』に代表されるように、幻想性というよりも、かなり明確なメロディを奏でさせ、あくまでオーケストラの電子化的な聴かせ方での、シンセ特有の音色の面白さを際立たせた。同様に、巨匠モーリス・ジャールも『刑事ジョン・ブック 目撃者』あたりから、生オケが奏でそうな美しいメロディをシンセで表現し、音色のユニークさが別世界的感覚を呼び起こさせる。
シンセの音色を有用的に聴かせた、当時の売り出し中の作家たちによる低予算娯楽映画、例えばシルベストリ『デルタ・フォース』、チャールズ・バーンスタイン『エルム街の悪夢』、セイファン『バイオ・インフェルノ』といった作品も登場。

時間を大きく経過させて現在の状況。クリフ・マルチネス『ドライヴ』『ソラリス』は、シンセ・サントラのひとつの頂点的なものであり、それは無音階サントラでの表現についても言える。
近年のスコアにおけるシンセ濃度と無音階度は、密着しており、トマンダンディや、チャーリー・クローザー、エリア・クミラルなどの担当するサスペンスや、アッシュ&スペンサーが受けるドラマなどが、現在のその典型例。ただし、タンジェリン当時よりも、無音階さは進んでいて、幻想感を演出するためにじっくりシンセの音色を聴かせる、という手法は、マルチネスぐらいである。オケモノも含め、多くが、無音階的アプローチに舵を取っているハリウッド映画の現在では、シンセ音を、それそのものが個性的な性格、という刺激として認識しなくなったということなのかもしれない。タンジェリン的幻想性は、その後に登場するバダラメンティ、バーウェル、マンセルといった作曲家の音は、過去のシンセ・サントラに要求されていたような幻想感を、生オケ主体で構築している、ともいえる。
いずれにせよ、シンセの音色は、完全に「自然界には、存在しない音」である。そんな音によって、メロディであったりリズムが奏でられたりすることで発せられる非日常性。『ドライヴ』のサントラのクローズアップは、マルチネスの非凡な才能はもちろんだが、その「独特の音色がかもし出す幻想性」に、潜在的に、近年出会っていなかった枯渇感もあるのじゃないかな、と思うのでありました。

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2012年4月 4日 (水)

ふたりのHarlow

ニール・ヘフティ『SYNANON』を聴く。『ENTER LAUGHING』クインシー・ジョーンズとのカップリング。麻薬中毒患者の更正施設の人間ドラマ。と訊けば、ヘフティといえども・・・と思ったら、これが、音だけだと、全く、映画の内容は想像付かない、おしゃれなイージーリスニング・タイプ寄りのジャズという、おなじみのヘフティ・ワールド。『SYNANON』の監督リチャード・クワインはそれまで組んでいたジョージ・ダーニング以外に音楽を依頼する『パリで一緒に』をネルソン・リドルに、『求婚専科』『女房の殺し方教えます』をニール・ヘフティに、『ホテル』をジョニー・キーティングに、とイージーリスニング・ファンにもたまらないバンドリーダーでもあるアレンジャーたちに頼んでいった。
ニール・ヘフティで、個人的に愛聴したのが、2001年にコレクタブルがCD化したイージー・アルバム『Pardon My Doo-Wah』と『Hefti Hot 'N Hearty』のカップリング盤。2001年というと、そうまだCD超好景気の頃だから、コレクタブルやコレクターズ・チョイス、そしてタラゴンといったコレクターズ・レーベルからイージーものがじゃんじゃんCD化され、その中の一枚。今では、がんばっているのはヴォカリオンだが、当時は、まだヴォカリオンのがんばりは目だっていなかったと思う。このアルバムの中に収録の「リル・ダーリン」、
このアルバムではないが「ガール・トーク」、この2曲をレパートリーにしているイージー・アルバムは楽団問わず、すぐほしくなった。
ヘフティのサウンドは、マンシーニよりもさらに、可愛らしさをもっていた印象がある。マンシーニのサウンドはレディであって、ヘフティはガールな感じ。ジャッキー・グリースンなんかは、もっと大人っぽくなる。
『HARLOW』は、ヘフティ音楽のキャロル・バーネット主演作の方がDRGからCD化され、聴かれた方も多いと思う。同じ年に、もうひとつ、同じくジーン・ハーロウを描いた『HARLOW』があり、キャロル・リンレイ主演のこちらの音楽はネルソン・リドル。こちらは現状未CD化。しばらく、当初どちかがリジェクトで映画は一本なのだと思っていた。
話は、少し前の行に関連して、ジョニー・キーティングだが、キーティングものは、ヴォカリオンがCD化に力を入れたが、中でもうなったのが『TEMPTATION』と『PERCUSSIVE MOODS』のカップリング。キーティングのアレンジは、誰もこんなアレンジしないだろう発想の転換的なアレンジで、なおかつシンプルにまとめて、ロックな感じさえ漂った。このロックな感じが、パンチのあるカテリーナ・ヴァレンテの歌いっぷりともよくあったのだろう。
ということで、クリッツァーランドは、『女房の殺し方教えます』に続いて『SYNANON』をCD化した。『求婚専科』をCD化したFSMは引退してしまうが、クリッツァーランドへの協力は万全と思うので、ぜひ、このまま『裸足で散歩』『砦の29人』『おかしな二人』を実現してほしい。が、どれも、限定1000枚だったら、瞬殺しそうなタイトルばかりが残っている。

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2012年3月29日 (木)

今日はヴァンゲリス氏の誕生日です

ヴァンゲリスを初めて知ったのは、もちろん『炎のランナー』が、まだ邦題をもっていなくて、インストなのに、ベストヒットUSAに登場した頃のこと。ただし、この頃、自分は高校生(男子校)で、洋楽好きも多く、フュージョン好きとかもいて、クラスでミュージシャン談義ができた(今では、多分、信じられない。ゲームクリエイター談義とかになるのだろうか)。そんな中に、ヴァンゲリスとジョン・デンバーが好き、という不思議な趣味(一見、両極)の友人がいて、彼に、ヴァンゲリスの旧作は教えてもらったと思う。そうそう、ちょうど、その頃にカール・セーガン博士の『コスモス』がブームになって、それに使われた音源のLPも出たのだった(あの番組用に作曲されたオリジナルではない。モリコーネの『ルーブル美術館』的な感じ)。
『炎のランナー』がアカデミー作曲賞を取ったのは、自分ではしっくり来なかった。オスカーが、劇伴本職な作家に不利なのは、昔も今も変わらないが、この年もそう。他のノミネートは『ドラゴンスレイヤー』『黄昏』『ラグタイム』そして『レイダース』。これだったら、自分なら『黄昏』ですね。しかし、『炎のランナー』の、あのアコースティックなシンセというインパクトは、その後のサントラ界にも絶対影響を与えているし、ヴァンゲリスが映画音楽に深く関わっていくきっかけにも絶対なっているはずなので、これはこれで意義のある受賞だったのだ、と今になっては思う。
ヴァンゲリスは知られている通り、サントラの盤化に積極的でなかった。『ミッシング』はシャドウズが演奏したシングル盤を買ったし、サントラとしていきなり出たのは、『南極物語』が、以後初となる。『ブレードランナー』も、カバー演奏のLPが出る異例。今となっては、こちらの音源も、聴きなおすと、それはそれで楽しいのですが。
ヴァンゲリスはハリウッド作品は2004年の『アレキサンダー』が現状最後。今年で69際なので、晩年の例えば、ミクロス・ローザのようにシブい小品などで復活とか、してみていただきたいのですが。
追記。『炎のランナー』の主要曲をフュージョン・カバーしたサックス奏者アーニー・ワッツのアルバムも大好きです。

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2008年2月 2日 (土)

インパクト

2日同じ話題で書けば、そのインパクトも伝わるだろうと思い、書きます。「すみや渋谷店のない2月」。親友を失った気分そのもの。ものすごい孤独感を覚える。まあ、25年間ほど、別に毎日通っていたでもないけれども、心の師匠的な部分は多大だった店だけに、じわじわ聴いてきている。「もうない、というのが信じられない」とは、まさにこういう状態だな、と実感しました。

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2008年2月 1日 (金)

20時少し前の状態

すみや渋谷店に着いたのは、18時30分すぎぐらいだったと思います。予想通り、まるで鉄道ファンの閉線前夜のような状態(自分も、過去に東横線の桜木町駅へ体験しに行ってます)になりかけていて、かなりのお客さんの数。もう、実際に、品物を物色するのが第一目的ではないですから、ほとんどコーナーにはもう残っていない、数少ないCDを隅から隅まで、見ながら、時間をすごす。そう、「この店で時間を過ごすということが、もう今日が最後」ということだからです。そうこうするうち、20時前後ぐらいが、もっともピークだったでしょうか、みなさん、言っておられたが「こんなに、この店に人がいるのを見たのは初めてだ」、そして、今日は、そうなるだろう、という期待と、そうなってくれたことへの安堵みたいな雰囲気。まさに、鉄道ファンのもつ、あの雰囲気と同じ。ただ、サントラ・ファンにとっては、同じような店があるわけではないので、この雰囲気が味わえるときは、もう、ないのである。明日には、あの場所に店は開いていないのだ。それは、不思議な感じがする。

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